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容光院の墓   広島県千代田町

広島県千代田町にある吉川広家の正室容光院の墓です。
 夫人は、また宇喜多秀家の姉にあたります。
 宇喜多秀家は、父直家が亡くなるとその夫人ふくが秀吉の妾同然に秀吉に囲われ、秀吉にわが子のように養育されます。かくして宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子同然の立場になります。後に関が原では宇喜多秀家とは別の道を模索することになり、関が原の勝敗のキャスティングボードを握っていた吉川広家ですが、意外にも彼らは義兄弟の関係だったのです。彼ら若き武将の血縁関係、それは豊臣秀吉の意図したところだったと思われます。
 吉川広家が秀吉から婚姻の話を受けたのは、島津征伐が一段落した1588年、完成間もない聚楽第に毛利輝元、小早川隆景、吉川広家の毛利氏三人を歓待したときです。この折秀吉から宇喜多秀家の姉を広家に嫁がしたい意向が伝えられたようです。
 早速この年の10月には婚礼の儀がこの地で執り行わます。しかし新婚生活はわずか2年足らず。秀吉から月山富田城への配置換えを命ぜられ、米子に移っていくことになりますが、広島の吉川家累代の地で亡くなります。1591年4月10日。広家との間に子はなし。どんな思いでこの寒い山間部に嫁いで来たのでしょうか。
  背後の山には日の山城があり、その山麓には吉川元春の嫡男で広家の兄元長が創建した万徳寺跡や吉川元春館跡があります。


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武将と古刹−万徳院跡
 
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