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阿南御前の墓   鹿児島県肝付町(旧高山町)

 写真は島津日新斎(島津忠良)の娘で、肝付兼続夫人であった通称《阿南》御前の墓です。鹿児島県高山町の肝付氏歴代の墓所にあります。
 肝付氏は大伴旅人の子孫と言われていて、11世紀には高山の地に定着していったようです。薩摩の島津氏が薩摩に下って定着する以前のことです。
 このような歴史的背景から、大隅の地は肝付氏が、薩摩の国は島津氏が覇権の中心と自他認めるところがあり、代々肝付氏と島津氏は犬猿の仲でした。
 このような長年の関係を収束させ、足元を固めるために、島津忠良は自分の娘を宿敵肝付氏に嫁がせたと考えられます。かくして《阿南》は肝付氏第16代の肝付兼続の元に嫁いでいきます。阿南16歳の時と伝えられています。
 阿南は父忠良のため、兄貴久の薩摩統一事業のためにと、肝付氏と島津氏との間で粉骨砕身尽くします。おかげで肝付氏と島津氏との間は一時平穏が保たれます。
 しかし、阿南と兼続との婚姻は所詮は一時しのぎの戦術でしかないことは、戦国の世では当然のことです。三州統一事業を目指す島津氏とそのいく手に大きく立ちはだかる名門肝付氏とは、いずれは雌雄を決しなければならない運命にありました。
 島津氏と肝付氏との間で板ばさみになりながらも、阿南の本音は、父忠良への慕情、本家島津氏への傾斜だったような気がします。夫である兼続が志布志に隠居した後、高山城は良兼が切り盛りし、大隅各地を奮戦しますが、1566年島津の軍に高山城を囲まれ、志布志へ落ち延びていきますが、途中で島津氏の軍に囲まれ良兼とその嫡男も殺されます。そのような悲報をどのような気持ちで耳にしたのでしょうか。その後を継いだ弟の兼亮も奮戦しますが、反島津氏ということで、阿南が廃嫡させたようで、その跡を阿南の息のかかった兼道に継がせます。このようないきさつを見れば、阿南の意図していたことは、はじめから父忠良の計画の遂行であったような気がします。
 阿南は、同じように肝付氏の支流に嫁いだ《にし姫》とは違って、本家に帰ることもなく、終生肝付氏の高山の地で過ごします。父忠良が肝付氏との破綻が訪れる前、高山の地に来て、兼続を説得し、阿南には本家に戻ってくるように説得した史実も伝えられています。しかし阿南はその父忠良の誘いを断り、敵地高山の土に還ります。肝付家の人々にとっては、阿南こそ、肝付家を滅亡に追いやった元凶と思われているようです。彼女の墓が、歴代肝付氏の墓の中にある光景は、なんとも皮肉な光景に思えます。
 
 
関連情報
 薩摩紀行―肝付氏の系図
 おんなたちの墓―西姫の墓

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