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雪江の墓   宮崎県清武町


写真は宮崎県清武城跡に残されている稲津掃部助とその妻と殉死者の墓です。
稲津掃部助は伊東氏の家臣で関が原の戦いが起きたとき、主君伊東祐兵と共に上方にあり、表向きは石田方に付いたものの、お家安泰のため徳川家康に付くのが得策と判断。そこで徳川家康の信認を得るため、主君伊東祐兵から急遽国許に帰り、西軍に与していた高橋氏の居城宮崎城を攻撃するように命をうけます。
 朝鮮での武功など伊東氏の中でも群を抜く武勇を誇った稲津掃部助だけあって、一日で宮崎城を落とします。ここまではよかったのです。
 しかし、石田方に与していたと思われていた高橋氏も実は徳川家康に内通していたとあって、結果的には同士討ちになります。
 関が原が終わり、結局徳川家康から宮崎城を高橋氏に返すように家康から命が下ると、腹の虫が収まらないのが稲津掃部助でした。おいそれとは簡単に返せません。50余名もの戦死者を出した中での宮崎城奪回、味方の流した血を思えば、また家康側からの承諾あっての攻撃です。
 しかし このとき稲津掃部助を弁護してくれるものが伊東氏家中の中には居なかったのです。稲津掃部助が小姓として仕え、彼を清武の城主として抜擢してくれた主君祐兵はこのときすでに世になく、伊東氏家督は息子の祐慶が継いでいたもののわずか13歳。伊東氏の家政は重臣の手に中にあったのです。しかも、この重臣が稲津掃部助に対して、よく思っていなかったようです。稲津掃部助は次第に伊東氏家中で孤立していきます。国家老の松浦久兵衛はじめ主だった重臣は、稲津掃部助を排除しようとする動きに出ます。
 対する稲津掃部助は、清武城に篭城、あくまで抵抗します。しかし篭城しても戦いの趨勢ははじめからわかっています。このとき稲津掃部助の妻雪江は実家の母が危篤状態という偽の連絡で実家飫肥に帰郷するところ、清武城の包囲を聞き付け、途中で取って返します。15歳になろうする彼女の立場を考えれば、なんとか逃がしたい気持ちだったのでしょう。しかし雪江はあえて、窮地に立たされていた稲津掃部助の妻として夫と共に果てるつもりで城に帰ります。
 武将として最後の散り花を求めていく夫稲津掃部助とともに、落城する清武城を枕に自害。家臣阿万三平が介錯。時に15歳とか。妻の自害を聞き届けた後、稲津掃部助、最後まで付き従った家臣ともども自害。稲津掃部助29歳。
 写真の墓碑には慶長七年、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、雪江とともに刻んであります。

 

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