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慈光院の墓   山口県岩国市

慈光院とは、吉川元春の正室にて、岩国初代藩主吉川広家の母にあたります。熊谷信直の娘として生まれ、毛利元就の次男元春に嫁ぎます。吉川派の本拠地安芸の大朝新庄にちなんで《新庄局》とも言います。
この縁談にはエピソードがあって、元春もそろそろ嫁をと言われ、だれが意中の者がいるのかと聞かれたところ、熊谷信直の娘と即答したところ、周りのものは耳を疑ったと言います。熊谷信直の娘は《しこめ》として評判がたっていて、わざわざそんな女をという思いだったと思います。しかしこれに対する元春の返答は、熊谷信直といえば、その武勇は広く聞こえし武人、《しこめ》の評判がある熊谷の娘をもらえば、熊谷も喜び、今後毛利氏のために存分に働いてくれるだろう、というもの。果たして熊谷信直は毛利氏の中国制覇の柱として働いていきます。
 結婚生活というものは、結婚してみないとわからないもの。そんな元春と熊谷信直の娘との結婚生活は、いたって平穏で愛情豊かな家庭だったようです。元春との間に生まれた男子は、嫡男の元長、次男の元氏、三男の広家、さらに四男の松寿丸がいます。女子が二人。四男の松寿丸は早世。広家が実質末っ子のような扱いだったようです。嫡男の元長は父元春とは18歳しか違わず、父元春の片腕として中国地方の戦地を巡ります。しかし秀吉の九州島津征伐の途中日向にて病死します。父元春が死んでからわずか半年後のことです。
 次男元氏は、他家に養子に出していたので、三男広家が、元長死亡後、吉川本家を相続します。広家については、若い頃、石見の小笠原氏が養子にと言う話を持ってきますが、毛利輝元が小笠原氏を信用せず、輝元の干渉によってこの養子縁組は破談します。この出来事は、若い広家には面白くなかったようで、《グレ始めていた》当時の若い広家に対して、元春と妻の新庄の局との連署で、広家を諭す手紙が出されています。衣装のたしなみから宴席でのマナー、社会上のマナーにいたるまで、ことこまごまと書かれています。最後に自分たちの手元に残った《甘えっ子、ツッパリの三男坊》の広家を老後の支えとして、なんとかまともな武将に育てようとしていた睦まじい夫婦の姿が浮かんできます。《元就の孫、元春の息子》を常に言い聞かされて育った広家は、母思いだったようです。
 秀吉の時代になり、長年の本拠地大安芸の地から、出雲の地へ所替になると、出雲に移り、関が原に負けると、岩国へと所替がおこりますが、いつも母と一緒であったようです。
 吉川元春の妻であり、吉川広家の母は、1606年に、この地岩国の地で他界します。広家の奔走で本家毛利氏が生き残ったのを見届けた後の死でした。中国制覇へ燃えていた元春の時代から、秀吉政権に組み込まれ生き残っていく時代、さらに家の存続の危機に直面した広家の時代と、激動の人生を生きた《新庄局》は、この岩国の地で、どんなことを回想していたのでしょうか。


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