Samurai World>教養の系譜



広瀬淡窓  大分県日田市


 広瀬淡窓は 江戸時代末期の九州を代表する儒学者です。 より正確に言えば 純粋な儒学者というより、卓越した教育者といって方がよいのかもしれません。 江戸時代後期(19世紀初頭) 彼の始めた《咸宜塾》は幕末にかけて 総勢3000名に近い塾生を世に排出していきます。 その中には 大村益次郎、高野長英などもいたと言います。 近代日本の出発の土台としての人々の教育レベルの向上に多大な貢献をしたことが窺われます。

  広瀬淡窓は、現在の大分県日田市に1782年に この地の豪商広瀬家の長男として誕生します。 日田は江戸時代には、九州大名の目付け役的位置づけを帯びていて、広瀬家がこの地の大豪商して発展してきたのも、この地の日田の代官との結びつきによるもののようです。 天領としての日田は、約15万石に匹敵する財政的基盤があり、九州北部の大名家は自然と日田の代官との関係を深め、九州北部の大名家との取次用足しを任されていたといいます。 そのことで、日田における広瀬家のビジネスは確固たる地位を築いたわけです。


   広瀬淡窓は幼少期より学問が好きで、また実家の経済的豊かさもあり、青年期またっぷりと学問に精をだすことができたようです。
 そんな広瀬淡窓が 自分の進路に悩みながらも出した結論は、塾の開設でした。 淡窓24才の時とされています。 開設時にはわずか二、三人で出発して塾でしたが、淡窓の教育方針とすぐれた指導によって、着実に塾生は増え続けていきます。

   咸宜塾の評判が高まると、日田の代官が咸宜塾の成果を代官支配の下に取り込むような動きを示した時もあり、広瀬淡窓は苦々しく思いながらも、本家の広瀬家と日田の代官との付き合いを考えて、不本意ながらも協力していった苦い時代もあったようです。

  そんな咸宜塾の天下における名声を確立したのは、広瀬淡窓の教育方針にあったと《広瀬淡窓》の著者井上義巳は指摘します。
  井上氏によれば、広瀬淡窓の教育指導の最大の特色は
・入塾にあたっては、身分に関係なく受け入れ、それまでの学問的経歴などいっさい関係なく、すべての塾生が入塾した順番で上下関係を定め、咸宜塾での教育指導の達成度の成績に応じて位階を上り詰めていくシステムであったこと。
・この方針は当時の身分制社会とは、本質的な部分で衝突するものであったが、社会の大きなうねりに答える形になったていた。

  塾生の構成は士分身分は少なく、ほとんどは僧侶、一般町民などでした。また女性二人の塾生も確認できるということです。

  咸宜塾は明治時代初頭まで続き、文字通り日本近代化への準備を用意してきたのだろうと思います。 現在、日田は天領地の面影を残す観光地として観光客で賑わっています。町には広瀬家本宅と咸宜園そして広瀬淡窓の墓も残されています。


 




 
参考資料
井上義巳《広瀬淡窓》吉川弘文館
 
 
inserted by FC2 system