Samurai World>教養の系譜



薩南学派の祖 桂庵玄樹


桂庵玄樹は薩南学派と呼ばれる学派を生み出す思想的源泉となった名僧です。
 幕末の薩摩藩士たちの思想を形成した薩南学派の伝統があったればこそ、尊王討幕という時代を変革できた動きが可能になったと言えます。人間は、何か新しいことを行動にまで進めるには、単なる経済的要因だけでは行動難しく、それまでの規範から自由な、新しい行動を合理的に納得させるくれる思想というものがどうしても必要になります。その思想を長く薩摩の武士たちに養分として与え続けていたものこそ、桂庵に始まる薩南学派の教養と言えます。




桂庵玄樹の生まれは、もともと周防山口とも現在の下関とも言われて定かではありません。15世紀始めの生まれとされています。少年のとき京の臨済宗南禅寺に入り、1467年足利義政の派遣した遣明船に乗船し明へ留学。約七年の明留学を終えて帰国。しかし時は応仁の戦乱の真っ只中。京を避けて、石見、山口、豊後、筑後を遍歴。肥後の菊池重朝に招聘されていたところを、縁あって薩摩の龍雲寺の宗寿という僧の仲介で、当時の薩摩の守護島津忠昌に招かれて薩摩国に来ます。  

  島津忠昌という人は、薩摩の守護でありながら、宗家の権力が確立する以前の状態で、一族分家、肝属氏などの薩摩大隅の各地に散らばる豪族、一族の内訌に悩まされ続け、最後には自害で生涯を閉じた人ですが、若いころから学問を好んだところから、名声の聞こえのあった桂庵玄樹を薩摩の国に招いたと思われます。しかし天下の高僧が薩摩の地に引きつけられたのは、この薩摩の地が、当時学問の先進地域であつたことも大きな要因かと思われます。元来日本の学問知識は、大陸、中国を手本とするもので、遣隋使、遣唐使の時代より、大陸との玄関口であった薩摩の地は、もっとも早く先進国中国の文物が入るところであつたのです。そのため大陸交易にかかわっていた薩摩日向各地には、現在の商社の支店とも言える寺院が点在し、そこで中国人と交渉できる外国語に堪能な僧への需要も当然おきていました。中世における寺院の果たした役割は、単なる宗教施設だけでなく、海外貿易を支えた拠点でもあり、同時に学問知識の移入と普及を果たしていた現在の大学院や研究所のような役割もあったのです。

 大陸に最も近かった薩摩には、現在の東京にも似たような雰囲気があったと思われます。当時の薩摩のサムライたちは、そういう意味ではもっも先端的な雰囲気の中にさらされていたと言えます。  この地に来て、桂庵玄樹は忠昌はじめ、島津一族、家臣など教えを請うものあとを絶たず、請われるままに日向飫肥、薩摩、大隅と進講のため各地を転々とします。その後暫く京に戻ったものの、再び薩摩に舞い戻り、1501年に現在の桂庵墓が立てられているこの地に、束帰庵を構えて隠棲します。


桂庵玄樹の朱子学における業績が注目されたのは、しかしずっと時代がたってからのことです。1840年、薩摩藩士伊地知季安の『漢学紀源』を読んだ昌平学問所の佐藤一斎が日本の儒学史に果たした桂庵の役割を認識したといいます。  

 その桂庵玄樹の日本儒学史に果たした最大の業績とは、四書の読み方を伝授するために考案した新しい和訓法とされ、彼の弟子である南浦文之によってさらに改良が加えられます。文之の弟子泊如竹が、江戸にでて文之の四書集註を刊行し、広く読まれていくことになります。 徳川家康によって体制の学問として採用されるに至る朱子学については、家康に請われた藤原惺窩とその弟子林羅山が知られているわけですが、薩摩の地では早くから、藤原惺窩の四書の新しい和訓法の功績は、文之からヒントを得たとも、はたまた剽窃だとも言われてきました。藤原惺窩が、明に渡海するため、薩摩の山川の正龍寺にしばらく逗留していたのは事実で、その時、文之の四書新註に接したのではないかと言われています。結局藤原惺窩は、明に渡ることなく、山川から京都に戻り、その後新しい和訓法により朱子学講義を始め、後に徳川家康に請われるようになります。まあ、その真偽の程は今となってははっきりせず、徳川政権時代の朱子学の祖としての藤原惺窩の業績は不動のものとなり、その弟子林羅山の流れが、その後の徳川250年間を支えていくことになります。  しかし、江戸から遠く離れた地にあった薩摩では、幕府ご用達の学問の流れとは別に、ある意味では日本儒学の本流ともいうべき儒学の伝統が根付いていったのです。その延長線上に討幕という歴史的大変革のシナリオが誕生してきたと言えます。

 
 
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