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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり-その2
毛利元就初陣の頃



 毛利氏に姻戚関係を持ち、興元の嫡男幸松丸の外祖父として、毛利氏の家政にまで干渉していた高橋久光も、備後の三吉氏の支城青屋城を落城させた油断から、三吉氏の手兵にあっけなく討ち取られてしまう。これで高橋氏の勢いは衰退していくことになる。
 毛利元就が幸松丸の後見人として、初陣に出陣したのは20歳のときである。
対するは、旧安芸国の守護武田氏である。
武田元繁は、反大内氏の旗を上げ、山陰の尼子氏と連携し、武田氏の勢力回復に積極的に動き出した。目指すは、もととも武田氏の勢力下にあった北部の山県氏の居城有田城である。この城は、高橋氏、吉川氏が南下し、当時吉川氏の勢力下にあった。武田元繁は、この地域を回復しようと、武田氏配下の熊谷氏、香川氏などを伴い、出陣。兵力は約5000。
 有田城から元就の居る猿掛城までは数キロの距離。武田元繁は猿掛城、さらにその先の郡山城をも狙ってきた。
 元就はこのような武田元繁の動きに対して、先手をうって、数百の手勢を率いて有田城へと出陣したのである。こうして元就の名を広く知らしめることになった『有田中井田合戦』が始まったのである。
 この戦いで、元繁はあっけなく元就に討ち取られ、これで鎌倉時代より安芸国の守護として自認してきた武田氏の勢力はいっきに落ちていくことになる。
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