Samurai World>毛利元就紀行>

地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その5
毛利元就家督相続後から郡山城合戦まで



 1523年念願の毛利家家督を継ぐと、早速元就は周囲の地盤固めに取り組んでいく。高橋氏を滅ぼした元就は、周辺の国人領主の取り込みに動く。
 まず手始めに、尼子氏との関係を絶って大内氏に帰属した元就は、近隣の天野氏の居城米山城を大内氏に協力し攻撃。元就は天野興定に投降を勧め、天野興定に恩を売ることで、以後毛利氏に協力していく盟友を作る。
 次にそれまで武田氏の配下で動いていた熊谷氏が、武田光和に側室として嫁いでいた妹が逃げ帰ったのを契機に、武田氏と不和になり高松山城下で合戦に及んぶに至り、1533年高松山城主の熊谷直信を盟友として取り組むことに成功する。
 その年には先代興元と盛んに戦を交えていたが、遂に決着がつかずにいた毛利氏と隣接している五龍城の宍戸氏と和解にこぎつけ、翌年の正月には元就自らわずかの供廻りを引き連れて五龍城の宍戸元源を訪ねる気の細かさを見せつけ、元源の機嫌を取り、元源の嫡孫隆家と元就の長女との婚姻を取り決め、宍戸氏と毛利氏との婚姻関係を作る。
 そうしたアメの政策とは裏腹にムチの政策も同時に実行し、尼子氏の息のかかった備北の山内氏の庶流多賀山山内氏の城を落とし、元就にあからさまに敵対する態度を示す備後の大豪族宮氏の居城も攻撃し落城させる。
 この時点で、安芸国の国人領主たちのそれまでの横並びの同列意識の中から、あきらかに毛利元就の力量が抜きん出ていることを、周囲の国人領主たちも意識していかざるを得ない状況にあったと言える。
 これは早くから大内義興が安芸の毛利元就に一目置いていたことが、現実のものとなりつつあることを示していた。

山城の写真も同時にご覧になりたい方は別枠で開きます。
inserted by FC2 system