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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その6
郡山城合戦前後



 元就30代では、周辺の国人領主との繋がりを深めていくことに終始している。
 天野氏をはじめ、熊谷氏、宍戸氏と盟友関係、婚姻関係を結ぶことでネットワークを作る。吉川氏からは正室を迎え、竹原小早川氏には、先代の時に正室として嫁入りさせ、婚姻関係を作り出している。
 さらに、大内氏への服従の姿勢を示すため、1537年には嫡男隆元を山口に人質として差し出し、大内氏との強い絆を作る努力をしている。このとき安芸の平賀氏なども同時に人質を差し出している。
 こうした周辺の国人領主たちとのネットワークを作り上げていた1540年に、京都への東上の意欲をもっていた尼子詮久(のちの晴久)が、背後の強敵になり得る毛利氏を初期段階で叩き潰そうと郡山城攻めに出陣した。
 しかし、結果は無様な敗退を余儀なくされ、毛利元就の安芸国における名声は一段と高まり、名実ともに盟主的立場となっていく。

 一方 尼子詮久の安芸侵攻とともに尼子方として気勢を上げていた銀山城の武田氏を、郡山合戦で勝利した毛利元就は、間髪入れずに攻撃。城主武田信実は出雲へ尼子氏を頼って背走し、ここに鎌倉時代以来の名門武田氏は滅亡。
 大内義隆は、武田氏の旧領のうちから、大田川河口域を毛利元就に与える。これが、後年毛利水軍として活躍していく水軍基地の始まりとなることになる。
 毛利氏の大田川河口域への進出にともなって、水軍の白井氏の勢力は大田川から駆逐されて、白井氏はもっぱら広島湾頭周辺に縮小させられていく。このときの因果が、厳島合戦にさいしての白井氏の動向に影を落とすことになる。
 大田川河口域を獲得したことは、水軍との係わりをもつようになったという意味で、その後の元就にとって中国制覇への大きな新たなステップとなった。

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