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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その7
大内義隆出雲遠征失敗の教訓



 郡山城合戦で、尼子氏を壊走させたのに気をよくして、大内義隆は、日和見な安芸、備後さらにそれまで尼子氏に属していた出雲の国人領主たちの積極的な遠征への要望、そして武断派の中心的人物、陶隆房らの意向をうけて、無謀にも出雲遠征を決行する。
 大内義隆の軍は、三田尻(ここは古代から幕末にかけての周防の軍港である)から海路岩国に上陸。ここで大内義隆派の賢将弘中隆包配下の軍が合流、そして厳島に渡海してここで戦勝祈願を行う。
 厳島から安芸国府があった府中に上陸。ここには大内派の水軍勢力白石氏の居城出張城があり、ここで毛利元就など安芸国の国人領主が駆けつけて合流。
 それから、熊谷氏の領地を通過。ここでは熊谷氏の菩提寺観音寺に宿泊する。
 現在の国道186号線を北上し、吉川氏の小倉山城を通過し、出羽氏の居城二つ山城で、石見、備後の国人領主たちが合流し、最終的な軍勢を整える。
 最初の関門は、尼子十旗と呼ばれていた尼子氏の周囲を守る城で、最前線に位置していた赤穴氏の赤穴城攻略であった。
 ここではかなり苦戦を強いられたようで、現在も古戦場跡がのこっている。熊谷氏の一族が討ち死にしている。
 赤穴城を落とした大内軍は気勢をよくして出雲に到着。宍道湖沿いを富田城方面に進軍し、最初星上山に陣を、次いで富田城を見下ろす京羅木山に陣を移して総攻撃を開始するも、富田城の守備は堅く、長期戦になり、遠征気分が蔓延し、出雲、備後の国人領主たちの寝返りによって、遂に敗退を余儀なくされる。
 壊走する途中、大内義隆は、家督相続のため土佐一条家より養子にしていた大内義房が、宍道湖で船が転覆して溺死し、失意の底に投げ出される。
 一方毛利元就は、殿軍を務め、石見銀山のあるところまで逃げ落ちたところを銀山の山吹城の本常氏などの配下に追い詰められ、九死に一生の悲劇を味わう。これが後世有名になった『元就七騎落ち』である。現在も島根県温泉津町に史跡が残されている。
 また同じく殿軍を務めた沼田小早川家の当主小早川正平が宍道湖湖畔で討ち死にするなど、悲惨な敗退劇が展開されている。
 この遠征失敗で、大内義隆は政治から逃避し、文学三昧の生活になったといわれているが、この遠征の失敗を教訓として活かしたのは、間違いなく毛利元就であったろう。これより後、厳島合戦までの約10年間、元就は、三男隆景の小早川家への養子実現、正室妙妙が死亡したのを契機に、次男元春の吉川家への養子縁組の実現、備後守護の拠点神辺城攻略など着々と周辺を攻略して、地盤固めを実行していく。
 そんな中で、毛利元就が大内義隆への決別を明確に悟った時は、1549年の大内義隆のいる山口への訪問であろう。元就は、大内家の事情視察のつもりで山口へ行ったはずである。このときすでに、大内家の内部分裂、陶隆房からの勧誘などを目の当たりにして、来るべき時に備える心の準備ができたものと思われる。陶隆房が大内義隆を長門に自刃させるのは、それから2年後のことである。

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