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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その8
大内氏より決別し、独自路線を行く



 1543年の出雲敗退より、陶晴賢との厳島合戦の1555年の約12年、元就は大内氏より距離を取り、いよいよ頼るべきものは自分しかないと覚悟し、毛利家内部の整理と周辺国人領主たちへの支配の安定化へと歩み始める時期となる。
 元就が戦国大名へと飛躍していく布石が、この時期に準備されている。
 まず第一は、正室妙久が逝去したことで、実家吉川家に対する遠慮もなくなってか、吉川家の内部分裂を利用して、当主興経の孤立化を計り、強制的に隠居させ、次男元春を養子に入れることに成功する。これで山陰方面に睨みを利かせることのできる軍事力と経済力を獲得。
 第二は、三男隆景の小早川家への養子家督相続を本格的にてこ入れする。隆景は、最初大内義隆の斡旋で、血縁関係にあった竹原小早川家に養子に入れることに成功。
 それから6年後の1550年には、小早川家中からも反対が多かった隆景の沼田小早川家への養子相続を強制執行する。沼田小早川家は小早川家の本家である。田坂全慶ら反対する重臣らを消し去り、若き盲目の当主繁平を僧籍に入れ、その妹と隆景とを結婚させ、安芸の大豪族小早川家を手中に収めることに成功する。この成功の裏で、動いていたのが、他ならぬ小早川氏一族の乃美氏で、早くから毛利元就とは気脈を通じていた。吉田にかなり近いという地理的な結びつきがあったろうと思われる。乃美氏一族の中には、水軍提督の浦宗勝や元就の継室乃美の大方がいて、乃美氏と元就の深い関係が反映している。
 小早川家を獲得できたことは、その莫大な経済的富と水軍という機動性に富んだ軍事力の二つを獲得したばかりでなく、小早川氏とつながりの深い村上水軍との関係も手に入れたことで、元就にとって大きな意味を持っていた。ここに、毛利氏が吉田郡山城の山間部の領主から、瀬戸内海一円を制する戦国大名となっていく契機が生まれてくるのである。
 第三は、毛利家内部の足固めである。1550年は、元就にとって大きな転換の年であったと思われ、この年に何もかもやっている。この中に第三の事件がある。
 これは、毛利氏譜代家臣であった井上一族の一族族滅事件である。この事件の意味については、別のところでも触れたいと思うが、これによって、元就が獲得したものは2つ。
 1つは、家中成敗権の獲得―つまり、毛利家内部での、当主元就の支配権の強化である。横並び状態にあった当主と一門、譜代家臣との上下支配関係への転換を実行したということである。
 もう1つは、井上一族の経済的基盤の継承によって、当主元就の経済的強化である。 大きくなるためには、資金調達がどうしても必要になる。それは昔も今も同じ。
 この以上3点が、実現していたからこそ、元就は1555年の厳島合戦に勝利できたこと、そしてその後の長期間にわたる防長制圧を戦い抜くことができた。
 1557年下関長福院(現在の巧山寺)に大内義長を切腹させた時、名実ともに戦国大名毛利元就が誕生する。ときに元就60歳の還暦であった。

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