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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その9
陶晴賢謀反、元就後顧の憂いを取り除く



 陶晴賢が主君大内義隆を山口に急襲したのが、1551年の8月28日。
 元就が広島湾頭の大内氏拠点であった、銀山城、桜尾城、厳島を占拠するのが、それに先立つ一週間前の8月20であるから、陶晴賢の謀反を元就は事前に知らされていたことは間違いなく、広島湾頭の拠点としてかねがね狙っていた大内氏拠点をさっさっと占拠したあたりは、用意周到というほかない。
 陶晴賢が大内義隆を自刃させた後、間髪を入れず、頭崎城を攻撃。ここには大内義隆傀儡の平賀隆保がいたが、隆保とは、小早川の人間で、大内義隆に寵愛されて、義隆によって平賀氏の家督を相続させられていた人物である。元就は早速平賀隆保を追放し、平賀氏の家督を本来の平賀広相に継がせ、平賀氏を与力として取り込むことに成功。
 頭崎城を追われた平賀隆保は、大内氏の安芸拠点であった鎚山城に逃れるが、ここも攻撃し、平賀隆保を自刃させる。
 次に元就がやらなければならない行動は、将来陶晴賢との戦を想定すれば、後顧の憂いを取り除いておかなければならないことであった。
 つまり、尼子氏の息のかかった国人領主たち、毛利元就に敵対する姿勢を見せている備後の国人領主たちを片付けておくことである。
 それまで一貫して尼子氏の陣営にあった備後の有力国人領主山内氏との盟約にこぎつけることに成功。山内氏と尼子氏とは、それまで婚姻関係もあり親密な関係を保っていたが、当時に毛利一門となっていた宍戸隆家の母の実家で、隆家も七歳まで山内家で養育されていたこともあり、隆家の仲介で毛利氏と山内氏との盟約関係を成立させることに成功。これで、尼子氏への強力な防衛線を獲得したことになる。
 山内氏の隣に位置している宮氏は、備後一帯に勢力を有していた大豪族であったが、元就になかなか従わなかったので、比婆郡西条大富山城の宮氏、比婆小奴可亀山城の宮氏、備後志川滝山城宮氏など、ことごとく攻撃し、味方につけたり、滅ぼしたりしている。
 最後の仕上げが、尼子氏の手先として元就に敵対していた備後三次地方の江田氏の討伐である。
 江田氏は隣の和智氏とは兄弟の関係であるが、和智氏が早くから毛利氏とは婚姻関係などから同盟関係にあったのに対して、江田氏の方は、最後まで元就に敵対し滅ぼされている。江田氏の支城高杉城の攻防戦は、凄まじかったようで、『陰徳太平記』にも詳細に描写されている。この高杉城が、高杉晋作のルーツに係わりがあることを指摘されたのが、司馬遼太郎氏である。しかし高杉晋作のルーツに関しては、他にもあるのことを指摘しておきたい。古城紀行を参照。
 高杉城を落城させた毛利軍は、江田氏の本拠旗返山城を囲み、落城させる。江田氏は尼子氏を頼って敗走したと伝えられている。
 この江田氏の後始末を巡って、元就と陶晴賢との確執が表面化し、陶晴賢と毛利元就との戦いが始まることになる。
 毛利元就は、江田氏の旗返山城を獲得し、備後一帯に睨みを利かしたかったようだか、陶晴賢は、毛利元就の野心を警戒し、旗返山城に陶晴賢の腹心で知将として聞こえの高かった江良房栄を城番として配置した。これが元就と陶晴賢との衝突のプレリュードだった。
 

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