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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その10
陶晴賢との決戦に臨む



 元就が芸備に勢力を広げていくことを警戒した陶晴賢は、旗返山城を攻略した後、元就がこの城を所望したにもかかわらず、陶の腹心江良房栄を城番として入れた。このあたりから、元就と陶晴賢との間に亀裂が大きくなっていく。
 ところが陶晴賢との決戦の糸口は意外なところから始まった。
 大内義隆によって吉見家の家督を継いでいた吉見正頼が陶晴賢に公然と反旗を翻した。吉見正頼の正室が大内義隆の姉であったことも大きい。
 1554年3月、陶晴賢は吉見の居城三本松城を攻撃するために津和野に出陣。しかし吉見氏の方でも、毛利元就に援軍を派遣してくれるように要請。同時に陶晴賢からも吉見氏攻撃に出陣するよう催促される。ここに毛利元就は、陶に従属して将来の機会を伺うか、吉見氏に呼応して陶晴賢に反旗を翻すか、決断を迫られることになる。
 しかし、元就の本心は、すでに以前から固まっていたようで、陶晴賢が津和野に出陣する前に、手の込んだ計略を用いて、陶晴賢に江良房栄が元就に内応しているように信じ込ませ、岩国の琥珀院に滞在していたところを弘中隆包に襲撃させる。これは元就が江良房栄の知恵を恐れたためで、江良が元就の戦略に知悉しており、毛利氏と陶氏との和解を試みるなど、元就にとっては意のままにならない存在だったからである。元就にとっては、この時点ですでに陶氏との和解など考えられないことだったと見ていい。
 毛利氏家中では、陶晴賢からの催促の要請から約半年間、家中の意見を計るなど言を濁し、なかなか陶晴賢との決別とはいかなかった。しかしこれは元就得意の手法で、陶に勝つための作戦熟考と盟友国人領主たちを意思統一へ持っていく期間だったと見ていい。
 平賀氏が陶晴賢からの使者を切り捨て、毛利氏に態度の固いことを示し、決起を促すほど機が熟したのを見計らってか、ついに1554年5月12日、陶晴賢との決戦を決断する。
 決断した元就の行動は電光石火のごとく速く、その日のうちに陶方の陣営であった太田川河口域の拠点を落とし、勢力下に収めた。銀山城、草津城、己斐城、桜尾城、そして厳島の拠点などである。
 草津城には毛利水軍の総大将小玉就方を、桜尾城には一族で譜代家臣桂元澄を配置した。さらに大内方の安芸国拠点となっていた宮島対岸の門山城を破壊させ、この城を利用できないようにした。
 それからの処置は、厳島合戦に向けて、大内陣営の水軍力の破壊である。大内陣営として長く広島湾頭に勢力を維持していた水軍豪族白井氏を攻撃。広島湾にそびえる仁保城を攻略し、ここに八木城の香川光景を配置。
 1554年の5月桜尾城北方で、陶晴賢の派遣した宮川房長率いる約 3000の兵と毛利連合軍が衝突。四方から包囲攻撃された宮川軍は惨敗。宮川房長は討ち取られ、毛利軍の勢力が侮れないことを示した。
 年が明けた1555年4月には、広島湾のもうひとつの水軍拠点野間氏の拠る矢野城を攻略。投降を認めながらも、城外で一族家臣らを皆殺しにするなど、陶との戦いを控えて緊張した時期であったことを物語る。
 最後には、広島湾沖の瀬戸内海に勢力を持ち、毛利氏に従属しようとしない倉橋多賀谷氏を攻略。同じ多賀谷氏でも蒲刈多賀谷氏は、小早川氏の勢力下に下り、毛利氏の水軍勢力となったのに対して、倉橋多賀谷氏の方は独立領主的性格があつたようで、最後まで毛利氏には従わず、毛利氏の猛攻撃をうけて落城。
 このようにして、陶晴賢との厳島での合戦に向けて、着実に包囲網を縮めるための一連の行動をとっていたと見てよいだろう。
 陶晴賢が、毛利元就の郡山城を攻撃するには、厳島対岸の門山城を経由して、白井氏の勢力下にある海田湾に上陸して、進軍するのが常道であったろう。元就は先手を打って、歴代の大内氏の進軍ルートを破壊し、陶晴賢を囲い込んでいったと言える。

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