それまで駿河の国を本拠としていた吉川氏が安芸国の大朝本庄に移動してきたのは、1313年の5月の頃と伝えられている。
吉川氏5代経高のときである。ときに経高80歳の齢に達していたという。そのような高齢に鞭打ってまで寒さの厳しい山間部に入部してきた理由は明確ではないが、本拠の駿河、さらには播磨国福井荘の一万貫といわれる広大な領地を捨ててまで、大朝本庄にこだわった背景には、それなりの積極的な理由があったのであろう。
経高が入部してきた当初、大朝富士とも呼ばれている秀麗な姿をしている寒曳山の麓に城を構えた。出身地に因んで駿河丸と呼ばれている。
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戦国時代の山城ではなく、土居形式の丘陵を利用した小規模な初期の荘園開発領主の居城である。
この駿河丸は経高、経盛、経秋とその後三代にわたる居城として使用された。
経高は、駿河の八幡宮をこの地にも勧請した。これが今日大朝の市街地に鎮守している竜山八幡宮である。
経高は、弟たちにそれぞれ領地を分地し、自らは惣領地頭として諸家一門を統括した。
長弟が播磨の福井荘を受け継ぎ、播磨吉川氏となり、次弟経茂を大朝本庄内の鳴滝村の地頭に任じ、石見の豪族三隅氏の支族永安氏との婚姻関係によって、石見に領地を広げて、後の石見吉川氏を形成していく。
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