毛利元就紀行吉川氏の家系と歴史



 安芸吉川氏中興の祖といわれている吉川経基は、吉川氏十代之経の嫡男として、1428年に小倉山城にて誕生する。
 家督を受け継ぐ以前から、父之経の名代として各地で転戦していく戦国武将の代表格でもあった。その武勇は西国隈なく響き渡り、人をして彼のことを『鬼吉川』または『俎(なまいた)吉川』と呼んで恐れおののいた。その武勇は宮中にも知られていたという。
 彼の武勇が彼の並外れた体格にあったことを示唆するエピソードがある。
彼が京にあった時、たまたま御所の前を通りすがったとき、塀の外を通り過ぎる烏帽子が天皇の目に止まった。烏帽子が塀の上から垣間見えるとは、馬に騎乗したまま御所の前を通り過ぎようとする不届きな輩であるということになり、近衛に誰であるか確認させられた。外に出で確認してみると、馬に騎乗しているのではなく、郎党数人を従えて歩いていたではないか。誰のものか姓名を尋ねると、天皇の近侍に吉川経基の武勇を知るものがあって進上すると、経基の容貌を誉められ、盃酒を賜ったという。このとき盃に大きな蜘蛛が降りてきて経基の盃の中に入ったが、帝の盃を頂かないと武士の行いにも恥じると思い、盃酒を賜ったと伝えられている。

 経基の気丈な体格を示唆しているし、彼の武将としての性格を物語っている面白いエピソードである。

 

 彼の武勇を不動のものとしたのは、戦国時代の幕開けを告げることになる応仁の乱での目覚しい活躍である。
 1467年応仁の乱が始まると、全国の武士は細川勝元と山名宗全の両陣営に分かれて戦乱に突入するが、経基は細川勝元に味方した。その年の9月父之経の名代として兵を率いて京へ上った。
 京での合戦記録である経基自筆の『合戦太刀打注文』が残っているが、それによれば、彼の合戦記録は次のようになっている。
 『合戦太刀打注文』とは、合戦での実績表であって、これをもとに戦功に与かる証明書である。現代のサラリーマンで言えば、給料が上がるか否か、出世ができるか否かの重要な考課表であって、このために武士たちは命を投げ出して戦ったわけである。
1. 9月13日一条高倉合戦
2. 10月2日武者小路今出川合戦
3. 10月3日北小路高倉合戦
4. 10月4日鹿苑院口櫓合戦
誰々がどういう傷を負ったか、槍の傷か、投擲の傷か、刀の傷か克明に書かれている。傷ひとつで領地が増えたりするわけである。
 この戦功によって経基は、播磨国福井荘を与えられている。

 さらに翌1468年8月1日、山名宗全側の武将畠山義就と京都相国寺にて大激戦を演じ、経基自身も傷を負いながらも、ついに畠山義就を撃退した。
 このような武勇によって京都の人々は、いつしか彼のことを『鬼吉川』とか『俎吉川』と呼んで畏敬し始めた。『俎(まないた)吉川』と呼ばれたのは、彼の顔面に無数の傷があったためである。
 さらに彼は休む間もなく、備後の西軍を抑えるために備後各地に転戦したり、播磨の守護赤松正則をたすけて、畠山義就と交戦したりと、その後も生え抜きの武将として活躍した。
 このため幕府から、邇摩郡(島根県温泉津町)や大朝に隣接する山県郡( 広島県千代田町)にも領地を与えらたり、赤松氏からは改めて播磨福井荘の地頭職に任じられ、一気に吉川氏の所領は拡大していく。また経基の娘を尼子経久の正室として嫁がせていて、吉川氏の勢力基盤がためも手抜かりなく行っている。
 彼は、家督を82歳になるまで嫡男の国経に譲らず、元就の初陣となる『有田合戦』の舞台となる有田城攻防戦にも自ら出陣しており、1520年の正月8日、93歳で長い戦国武将としての生涯を閉じた。

 戦国武将の先輩として、元就の初陣をどのように見ていたのであろうか。一人の武勇が消えていくとき、歴史は別の武勇を登場させたかのように思えてならない。

 

 経基の生涯をみると、戦いに明け暮れていた武骨一辺倒の武将のように思われるが、
彼の武勇と同じ程度に、教養も深いものがあった。
 和歌を嗜むというレベルを超えて、その道には造詣が深かったようで、百首の歌を進上している。
 また書道にも優れた才能を持ち、後柏原天皇の勅命をうけて『古今和歌集』と『伊勢物語』を筆写し献上している。
 さらに宗教的関心も深く、『元亨釈諸』なる仏教史30巻を筆写し、菩提寺洞仙寺に寄進したりしている。
 吉川氏の文芸好きは、どうやらこの経基の影響が大きいようで、吉川家の家督を受け継いだ吉川元春が合戦の合間に『太平記』全巻を筆写したのは有名な話であるし、嫡男元長に至っては、出陣するにあたって、持参していく書物の選定をするくらいであったようで、自らあらゆる宗教の体系化を試みるほどの学問好きであった。
 現在吉川氏には、『吾妻鏡吉川本』というのが残っていて、これは『吾妻鏡』の原典を今に伝えている貴重な資料となっている。吉川氏は、たんなる『鬼吉川』と呼ばれるだけの武骨一辺倒の家柄ではなく、学究肌の家系でもあつたのであって、その伝統を作り出したのは、『鬼吉川』と呼ばれた吉川経基にあることは間違いないと思われる。
 『鬼吉川』と呼ばれた吉川経基の並外れたスタミナとエネルギーは、同時に精神的な世界にも投入されていたのである。

(堀ノ内)

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