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毛利氏と北條時宗との因縁

 2001年度NHK大河ドラマは、北条時宗が放映されますが、鎌倉幕府の執権職北条氏と毛利元就の先祖、毛利氏とは実は切っても切れない深い関係にあることをご存じの方は意外に少ないのではないでしょうか。
  このシリーズの『毛利氏の家系』をまずはご覧ください。
 毛利氏の祖は、相模の毛利荘を領して毛利氏を初めて名乗ったとされている毛利季光とされています。
 その毛利季光の娘が、執権北条時頼に嫁ぎます。その間に誕生したのが、北条時宗です。したがって、北条時宗の中には、毛利氏の血が半分流れているわけです。

 ところで、なぜ毛利氏が鎌倉幕府の権力中枢に食い込んでいたかを理解するためには、大江広元と源頼朝の時代に遡る必要があります。
 源頼朝の鎌倉幕府という政権は、実は大宝律令以来の朝廷政権に対する、武士団の利害を代表したローカルな関東政権に過ぎませんでした。すでに日本全国は、名目的にはすでに京都による政権によって治められているわけです。そのなかで、関東武士団の利害を中心に新しい独自のサブ政権が誕生していくわけです。その代表が八幡太郎義家以来、関東武士団の中で崇められてきた源氏の棟梁としての源頼朝であったわけです。大宝律令による貴族政権と利害が衝突し始めていた武士団が、京都の政権に対する代表として源氏の棟梁、源頼朝を御旗に立てて、京都の政権の枠外で独自の世界を打ちたてたもの、これが鎌倉幕府だったわけです。
 このような背景のもとで、鎌倉幕府が誕生したわけですから、創立期の源頼朝にとって、大きな仕事は、京都の政権から離脱していくための交渉です。当時の京都の実力者は、後白河法皇ですから、
頼朝の課題は、この後白河法皇との政治的駆け引きになります。
 ところが、向こうは歴代天皇の中でも有数の政治家です。対して源頼朝は京の公家社会の政略、慣習などには疎い。そこで頼朝が頼みに引き抜いた公家が、大江広元だったわけです。
 大江広元に白羽の矢があたった経緯はここでは省略。
 このような次第で大江広元が頼朝に請われて鎌倉に下向してきます。以来、広元は鎌倉幕府の幕府評定衆の中心的なメンバーとして活躍していきます。
 実は、鎌倉幕府初期の政策などはすべてこの大江広元が青写真をひいたものです。義経追討の大義名分で全国に守護地頭を設置したり、承久の乱に対する迅速な策など、その後の鎌倉幕府の安定政権を作り出した功績のほとんどが大江広元の入れ知恵です。
 ところで、ここで注目しなければならないことは、大江広元は最初は頼朝によって招聘されて鎌倉に下向し、頼朝側近として活動していたわけですが、気がつけば鎌倉幕府の権力は北条氏のものとなっていたことです。承久の乱のさいの政子の名演説の時には、すでに頼朝は亡く、北条氏の独断場になっています。それを陰で支えていたのが、大江広元です。広元には京都の出方が手に取るようにわかる。蛇の道は蛇と言います。だから先手に京都政略が打ち出せる。これが承久の乱に鎌倉幕府が勝利できた大きな要因です。
 実は、大江広元はいつの間にか北条政子のブレーンとなっていたわけです。そして北条政子の背後には、北条一門という権門が控えている。
 大江広元の立場は、最初は頼朝直々のブレーンとして、頼朝亡き後は、北条政子のブレーンとして、鎌倉幕府の陰の実力者であり続けたわけです。

 しかし当時、まだ北条一族の独裁は実現しておらず、頼朝以来の有力御家人がいたわけです。梶原景時、畠山重忠など頼朝以来の御家人がすべて北条氏によって滅ぼされています。そのような有力御家人の最後の生き残りが三浦氏です。
 三浦一族は、三浦半島一帯に勢力を擁していた平氏の流れですが、頼朝挙兵を支えた関東有数の大豪族です。
 北条時宗が誕生する前後の鎌倉の状況は、鎌倉幕府の実権を牛耳ろうとする北条一族と三浦一族との対立が緊張していました。
 三浦一族の支族に和田氏という一族がいましたが、この和田氏は1213年、北条氏の陰謀で謀反を誘われ一族族滅させられています。
 その後も本家筋にあたる三浦氏は隠然たる実力を保つ続けたので、ついに北条氏の標的にされます。
 ここでさきの『毛利氏の家系』を見ていただきたいのですが、毛利季光は三浦泰村の娘婿になっています。同時に北条時宗の外祖父にもなっている。
 三浦氏が鎌倉政権に楯突いたという謀反の嫌疑をかけられ、北条氏から討伐されるとき、初め毛利季光は、北条氏に味方し、三浦一族の館を包囲するために出陣しようと準備します。
 ところが、いよいよ出陣しようとする間際、毛利季光は妻にさえぎられ、『あなたはそれでも恥ずかしくないか』というようなことを言われます。つまり当時の武家の慣行として、緊急の際には妻方の実家にはせ参じる習わしが常識とされていたからです。当時まだ女性の地位は高く、女性も財産を実家からもらっていて、その点で妻の実家との関係も強く結ばれていたからです。
 その妻の言葉に毛利季光は、一転妻方の実家である三浦氏救援に出陣していきます。そしてそこで息子たちと討死にします。
 非常に劇的な最後です。
 普通なら、毛利氏はここで一族滅亡となるわけですが、奇跡というか、季光の四男経光が越後の領地に赴いていて、この戦禍から免れます。
 毛利氏は、当然三浦合戦の科を問われて、毛利荘は取り上げられますが、北条氏との婚姻関係もあって、また当然大江広元以来の功績も鑑みられたのだろうと思いますが、越後と安芸の吉田の領地は安堵されます。
  かくして、毛利元就が誕生する望みがつながれたということになります。
 北条時宗と毛利元就、まったく関係のないような二人の武将ですが、実はおなじように大江広元や毛利季光の血を受け継いでいるわけです。




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