毛利本家と毛利両川体制のIndexに戻る
元就が、養子としていったんは他家に出した吉川元春と小早川隆景を
なぜ家中から反対があるのに、毛利本家の中枢に参画するようにさせたのだうか。
その真意はどこにあつたのか。

毛利両川体制誕生の萌芽 
毛利元就はいつ、毛利両川体制を着想したのだろうか。
 現在定説となっているのは、厳島合戦に勝利し、大内氏の遺領防長を制圧しつつあった 、 1557年説である。
 しかし元就が小早川氏と吉川氏とを毛利氏 発展の支えとして両脇を固めるように体制を 整えたのは1550年である。
  この年の2月、3年前にすでに養子契約が できていた元春を、毛利氏の譜代家臣36人 を添えて吉川氏の本拠小倉山城に入城させ 、名実ともに元春が吉川氏の当主となる。
 元春が小倉山城に入城するにあたって、元就は吉川家正統の最期の当主吉川興経とそ の嫡子千法師を幽閉先の深川の館に襲い、 始末させている。この年の9月下旬のことで ある。小倉山城入城後の元春を万全の態勢 で固めるためであった。
 さらに、この年の10月には、それまで竹原小早川氏の養子に入っていた
三男隆景を反対派を押さえて、本家の沼田 小早川氏の家督相続も強引に認めさせ、高 山城に入城させている。
 こうして、毛利元就は、嫡男の隆元を本家に据えて、両脇を固めていくための体制づくりを1550年の時点で作り上げている。
 しかし、これは後年両川体制と呼称されよ うな体制ではなく、毛利氏が安芸、備後の国 人領主の横並びの状態から抜け出て、一歩 リードしていくための政策に過ぎなかった。
 その後も吉川氏、小早川氏と並んで宍戸氏 、天野氏、熊谷氏、平賀氏など安芸国の国 人領主たちの同盟関係を強化しつつ、その 盟主的立場で軍事行動を起こしていくことに なる。 1550年の段階では、元就の念頭に あったのは、そういう国人領主同盟の中でも 、血縁関係による一段と信頼できる横の同盟 関係の強化というレベルであったろうと思わ れる。

写真は、元就が三子教訓状を書き上げた富田若山城跡。
かつては、陶晴賢の居城であった。
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