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毛利元就の息子たちとその領地




元就の息子たちの色分けは、同じ色が同じ母親から生まれていることを示しています。
 
 
毛利隆元(1523-1563)
 毛利隆元は、毛利元就の嫡男として誕生し、元服する前に山口の大内氏に人質として出され、数年間山口で過ごす。人質生活といっても優雅な生活であったようで、この時代に大内文化に接し、教養を身につけたようである。当時の隆元の館は、現在の瑠璃光寺入り口にある駐車場であろうと推測されている。大内義隆に偏諱を与えられ、隆元と名乗る。また、正室も大内義隆の重心内藤興盛の娘を義隆の養子として嫁がせている。大内氏との強い絆が隆元を支えていた。
 江戸時代半ばまでは隆元が毛利宗家の家督を継いだことは一般的に知られておらず、その存在そのものの希薄さが影を落としていると言えよう。 あまりにもカリスマ的存在でありつづけた父元就の影に隠れた生涯であったと言えよう。
 しかし、隆元の果した本当の役割は、その人徳によって隆景と元春のいわゆる毛利両川体制の基盤を用意したことにある。隆元の人徳あればこそ、二人の弟元春と隆景が仲たがいせず、残された若き輝元を支え、毛利本家を支える両川体制に合意したと言うべきであろう。
 元春と隆景が隆元の本当の気持ち、辛苦を知るのは、隆元亡き後である。元春と隆景はもともと性格がかなり違い、仲たがいする兆候はすでにあったが、隆元の死をきっかけに自重するようになったものと解釈したほうがよい。父元就のたしなめもあったろうが、それだけでは生涯を毛利本家のために尽くすだけの誠意は生まれてこないだろう。当主隆元を立てるという元春、隆景の忠義なくしては、語れまい。
 隆元は1563年尼子攻略の本陣に合流するため出雲に向かう途中、現在の広島県高宮町の佐々部にて急死する。この死因については不明で、以前から南天山城主和智誠春などの毒殺説が言われつづけてきた。 墓所は吉田郡山城跡にある。  家督は、隆元の嫡男輝元が受け継ぐ。
 
吉川元春(1530-1586)
 元就の次男で、元就の戦略の道具として名門吉川氏の家督を継がせられる。吉川家家督相続については、血生臭い謀略の結果であり、今でもその史蹟は安芸に散在している。正室は高松城主熊谷直信の娘で、この婚姻についての元春のエピソードは有名。直信の娘は、元春との間に元長、元氏、広家といずれも名将を生んでおり、もっとも優秀な戦国武将に恵まれた家系だっと言えよう。直信の娘(-1606)は、広家など吉川家当主に大事にされたようで、最後は広家の領地岩国の吉川氏歴代の墓所にそのりっぱな墓があり、法名は『慈光院殿玉窓芳珪大姉』である。これも元春以下元長、広家の実直で宗教深い教養を物語るものと推測できる。
 元春の武将としての器量は、元就でさえ敵わなかったとされ、秀吉にさえ『元春がああしていられるのは、元長、広家のような有能な息子たちがいるからだ、羨ましい』と言わさしめている。 生涯負けを知らない武将として有名だが、一方では当時の武将としての教養も大切にしていた。 毛利氏が高松城攻防戦で豊臣秀吉と講和を結んで、豊臣秀吉の臣下となってからは、元春は秀吉の直臣になることを潔しとせず、家督を元長に譲り、秀吉の出兵要請にも応じなかった。しかし九州征伐の際には秀吉のたっての度重なる懇願に、周囲の説得もあって、毛利本家の立場を配慮し、重い腰をあげて元長、広家(当時はまだ経言という名前)を伴って九州征伐に向かう。しかし攻略した小倉城にて病死。小倉城に入れた黒田高孝(黒田如水)の饗宴を受け、悪いと知りながらも礼儀として食した生鮭が持病の腫瘍が悪化してのことだっと言われる。
 墓所は元春館跡のある海応寺跡にある。
 元春には、嫡男の元長をはじめ次男元氏、三男の経言(のちの広家)、そして四男がいたと言われているが、四男は早世したと伝えられていて、それが元春、元長の隣に埋葬されている墓であるとも言われているが、何を調べても確証は得られていない。
 娘は数人いて、石見の名門益田元祥に嫁いだりしている。
 正室熊谷直信の娘との家庭は円満であったようで、多くの優秀な子宝にも恵まれ、元春の側室などについてのうわさは伝わっていない。実直な性格であったようである。
 
小早川隆景(1533-1597)

 元就の三男として生まれ、元就の戦略の道具として小早川氏の家督を相続させられる。最初は竹原小早川氏を相続したが、のちに本家にあたる沼田小早川氏も相続し、小早川氏を一本化する。いずれも元就の謀略の結果と言える。正室は沼田小早川氏の嫡男繁平の妹である。
 元春が元就の戦略上、山陰に打ち込まれたくさびとすれば、隆景は山陽に打ちこまれたくさびと言える。隆景は父元就の期待にこたえ、小早川水軍などを背景に山陽方面の軍略を司り、元春とは一味違った策略によって活躍していく。政治的才能にかけては、父元就の資質をもっともよく受け継いだ息子であったと言える。この資質の違いが、秀吉政権下での元春と隆景の方向性の違いになろう。秀吉政権下では、五大老として重責を担い、四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵など毛利氏にとって最も軍事的に過酷な時代を、当主輝元を補佐して秀吉との駆け引きに奔走している。
 秀吉による小早川隆景と本家輝元との離反を画策するさまざまな策に対しても、常に冷静に対応している。最後は、毛利本家を秀吉の策略から守るために、元就の晩年の息子秀包を養子にしていたにもかかわらず、秀包を別家として独立させ、秀吉から輝元の養子にと推挙された秀吉の甥にあたる木下秀俊(秀秋)を小早川毛の養子に迎え、代わりに本家輝元の養子には、元就の四男穂田元清の嫡男秀元を宗家跡目として養子に迎えさせた。秀吉の策略に対して、常に機先を制して冷静に対処した小早川隆景であったが、惜しくも関ヶ原の戦いを見ずして脳卒中で急逝。凡庸な毛利家当主輝元にとって、来るべき試練のときを目前に控え、最大の痛手であったことは間違いない。
 元就亡き後の毛利家を切り盛りしていたのは、ひとえに小早川隆景と言うべきであろう。家臣、家中の人々もとにかく隆景を信頼していたことは確かである。輝元が成人してからも、あまりにも毛利本家の内部に口出しするので、輝元などはちょっといらだっていた形跡もある。それでも隆景生存中は、表立って隆景に反抗することもできず、隆景を中心にして毛利家は動いていく。
 墓所は、歴代小早川氏(土肥氏)が眠る米山寺にある。
 隆景にも側室のうわさは伝わっておらず、生涯繁平の妹(後年問田の大方と呼ばれる
)を正室として添い遂げたようである。問田の大方は輝元の長州転封にしたがって、隆景亡き後は山口市郊外吉敷に移り住んだ。夫人の兄小早川繁平に対する自責の念も少しは働いていたような気がしている。

 
穂田元清(1551-1597)

 元就の四男として生まれる。母は兄たちとは別腹で、小早川一族の乃美氏の娘である。備中猿掛城主の穂田氏の養子にさせられる。東国方面へのくさびとして打ちこまれたとも言えよう。兄元春、隆景に劣らず武将としての資質に秀でており、特に毛利氏の東方戦線で活躍する。広島築城時の縄張り責任者、秀吉が広島城を視察する際の責任者としても活躍していることからもわかるように、決して庶子として格別劣るような扱いは受けておらず、元就の子として大事に扱われていたようである。晩年は桂元澄がそれまで勤めていた桜尾城主の役を桂元澄が自ら引き下がることによって桜尾城主を務め、この地で永眠。
 歴史小説家司馬遼太郎氏は、穂田元清のことを、その母の出自が卑しいためはやくから家臣の列になっていたと書かれているが、それはとんだ間違いで、穂田元清はじめ元政、秀包の母は、乃美隆興の妹であって、乃美氏は、安芸の名門小早川氏の一族である。乃美隆興は現在の広島県豊栄町の茶臼山城の城主で、小早川氏の中では、もっとも吉田の地に近い場所に領地を構えていたことから、早い段階から毛利元就と一脈通じていたようで、隆景の小早川本家家督相続の際の手際のよい処置は、ほとんどこの乃美隆興が中心となっていたことが知られている。
 このことからもわかるように、小早川隆景が小早川家の家督を相続したあとには、乃美氏の血筋を引く乃美宗勝(浦宗勝)が小早川水軍の総大将として活躍する背景があるわけである。
 穂田元清は、こうした名門小早川氏の血筋を引いている血統であって、卑しい血筋などとはとんでもない誤解である。穂田元清は母の老後や同腹の弟たちを常に心配する心やさしい武将でもあったようである。元清の残した手紙には、綿々と母のことをよろしく頼むことが書かれている。また弟元政が上月城合戦で抜群の手柄を挙げたことを喜ぶとともに、それに奢ることなく、今後は何事につけ景様(小早川隆景のこと)に相談するのがよかろうと忠告もしている。
 穂田元清にとって、小早川隆景は、小早川家ということもあって、兄であると同時に、何事につけ相談すべき父元就の代わりでもあったろうと思われる。そして隆景の方も元清はじめ腹違いの弟たちの期待に応えていたようである。穂田元清は、母のこと、弟たちのことを心配しながら慶長2年年桜尾城にて永眠。享年47歳。病に伏せたとき、隆景が心配して見舞いに訪れたと言う。
 
 穂田元清の
次男秀元は、祖父元就の面影を引いていたと言われるように、武将として元就の資質を受け継いだと言えよう。関ヶ原の戦いでは10,000余の毛利軍を率いて参戦。輝元に嫡男が誕生するまでは、輝元の養子として毛利家の家督相続者であった。秀元を毛利家の跡取として指名するに先立って、元春と隆景が宮松丸(秀元の幼少名)を初めて引見したのは、宮松丸5歳のときであった言う。5歳とは思えないほどの賢さを宮松丸の中に看取した元春と隆景両名は、毛利家の家督相続者として指名した。豊臣秀吉が輝元の家督相続者として、初めて秀元に会ったのは、朝鮮出兵のため九州名護屋城へ向かう途中、広島城に立ち寄ったときである。このとき秀吉も秀元を一見し、輝元の跡取、毛利本家の家督相続者として不足はない人物と認め、毛利家の家督相続の問題には口出しはできないとあきらめざるを得なかったようである。
 輝元に嫡男秀就が誕生したことで、家督相続者から外されるが、別家を立て、のちに長府藩の藩主として西の防備にあたり、毛利本家の大きな柱として支えていった。また本家の血筋が絶えてからは、毛利本家の藩主となり、幕末まで続くから、幕末の長州藩主とは、穂田元清の血統ということになる。
 墓所は、 桜尾城にほど近い洞雲寺に夫人の墓と並んでいる
。夫人は来島村上氏の娘で村上武吉の養女として穂田元清に嫁いだ。

 
元秋(1552-1585)
 元就の五男として誕生。周防の椙杜隆康の養子となるが、のち出雲月山富田城主として尼子氏残党の反抗に奮戦。富田城にて没。
 墓所は富田城山麓にある。
 
元倶(1555-1571)
 石見の国人領主出羽元佑の養子となるが、早世。
 墓所不明。
 
天野元政(1559-1609)

 元就の七男として誕生。米山城主の天野元定の婿養子となる。以後天野氏となるが、後には天野毛利家と呼ばれるようになる。天野氏は藤原氏の家系を引く関東御家人なので、元政の家系は毛利家庶家のなかでは、かなり名門の家格となる。
 元政が天野氏の養子となって米山城に入城したあと、父元就が元政のことを心配している手紙が残されているので、よく元就関係の書物に書かれているように、元就が庶子のことなどどうにでもしてくれと隆元に書き残していることから、元就の庶子は、粗末に扱われたような印象を与えているが、実は父として実の子のことは心配していたことがわかる。そして実際、隆元、元春、隆景は腹違いの弟たちを大切に扱っている。決してぞんざいには扱っていない。
 なかなかの武勇であったようで、上月城合戦、朝鮮出兵、関が原といくたの武勇伝が伝わっている。元就の息子らしく、生涯を戦いに明け暮れる日々であったようである。
 もっとも元就の方も、この元政に関しては、何か思い入れがあって、可愛かったのであろう。天野氏の米山城といえば、元就の膝元も当然、そこに置いて何かと心配しているところからも推測できる。
 関ヶ原の戦いのあとは、周防三丘(山口県熊毛町)に領地を与えられるが、のちに宍戸氏と領地交換を行い、周防右田(防府市)に13000石を領して右田毛利家となる。
 墓所は熊毛町「仙龍寺跡」

 
元康(1560-1601)
 元就の八男として誕生。出雲末次城主として活躍。同腹の兄元秋の死亡後は、富田城主となる。朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでも活躍。関ヶ原の戦いのあとは、長門厚狭(山口県山陽町)に領地をもらい、以後厚狭毛利家となる。
 墓所は大阪市天徳寺。
 
秀包(1567-1601)
 元就の最晩年の息子。実子のない小早川隆景の養子となる。1583年に秀吉の求めに応じて吉川経言(広家)とともに大阪に人質として出されるが、秀吉にかわいがられ、秀吉とともに関東方面の戦いにも参戦。秀吉から偏諱を与えられ元総改め秀包と名乗るようになる。正室は大友宗麟の娘を秀吉の養女として与えられる。養父小早川隆景が筑前を与えられると、その中から三郡を与えられ、13万石の久留米城主となる。その後小早川隆景が秀吉の甥の秀秋を養子に迎えたため、別家となる。朝鮮出兵、関ヶ原の戦いでも奮戦したが、関ヶ原の戦いのあとは、家康によって久留米城主を除封、長門で没。その後子孫が周防吉敷に領地をもらい、吉敷毛利家となる。
 秀包は、乃美の大方の最後の子であるためか、人質として大阪に上っていくと、輝元にあてて手紙をしたため、早く返してくれまいかと書いているように、大変かわいがられていたことがわかる。
 余談だが、このように輝元に直訴できるほどの影響力を乃美の大方殿が持っていたのは、ひとえに彼女が名門小早川家出身だったことと、元就の継室(側室ではない)だったろうと推測されるからだ。
 秀吉の人質としては、毛利方から元春の三男広家と小早川隆景の養子秀包が出されることになったが、広家の方は、元春と秀吉の関係および、元春自信が広家を手元におきたたがっていたこともあってか、すぐに大阪から返してもらったが、秀包の方は、秀吉にも気に入れられてか、なかなか返してもらえず、秀吉とともに小牧長久手の戦いなどにも参陣している。
 墓所は 山口県豊北町「西楽寺」
 
二宮就辰(1546-1607)
 備後国矢田元通の娘と言われている女との間にできた息子。誕生は正確にはわからないが、正室妙玖の逝去数ヶ月後とも伝えられている。正室の手前、家臣二宮春久に払い下げたのであろう。誕生後、二宮春久の息子として、現在の安佐北区白木町井原というところで、養育されていた。誕生した時、元就から元就の息子であることを証明するために、具足、下着、産着などを与え、虎法丸と命名した。このことから推測できるように、元就自分の子供にはやはり煩悩があったのであろう。
 就辰の素性がわかったのは、元就の側室中の丸が輝元に密かに打ち明けたことによる。以後輝元に取り立てられ家臣として、二宮就辰として生涯を終えた。広島城築城の際には、元清とともに普請奉行として大任を果たしていることなどからわかるように、輝元の信任厚く、側近として仕えた。
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