元就母の墓のなぞ
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元就の母は、毛利一族の福原氏で、福原広俊の娘となっている。毛利一族の中でももっとも有力で中心的な一族である。毛利元就が後年隆元に書いた手紙の内容によれぱ、元就五歳の時母に死なれ、十歳の時父に死に別れたとある。元就四歳の時、父とともに猿掛城に移り住んでいることになっている。ところが、元就の母が、父とともに猿掛城へ移動したかとどうかとなると、これがはっきりとしていない。父弘元は猿掛城に隠居して五年後に死んでいる。父の墓は猿掛城山麓の悦叟院という菩提寺跡にある。そして母の墓も弘元と並んである。
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ずいと思ったのか、大正時代に母の墓石をわざわざ猿掛城の悦叟院跡地に移動させたのである。
現在、猿掛城で見かける弘元と元就の母の仲良く並んだ墓石は、意図的に仕組まれた光景だということである。 元就の母の墓が実家の福原氏一族の墓所にあったということは、当時そういう状況を作り出すだけの事情があったことを物語っている。そのことについては元就は何も語っていない。語りたくなかったのだろうと思う。
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写真は、福原氏の居城鈴尾城跡一角にある福原一族の墓所。 |