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 幸松丸・死のなぞ

 幸松丸は、元就の兄興元と高橋氏の娘との間に誕生した毛利本家の嫡男である。兄興元が1516年に死亡すると、わずか二歳で毛利氏の家督を引き継ぐ。元就は当時猿掛城に分家していて、幸松丸の後見人と言う立場になったわけだが、実際には幸松丸の外祖父にあたる高橋久光が後見人として毛利氏の家政に実権をふるっていたようである。元就は相当この高橋久光に押さえつけられていたようである。
 その高橋久光も1521年に三吉氏の支城青屋城を攻撃し落城させた後、油断したところを引き返してきた青屋勢に打ち取られたことになっている。  幸松丸の死因については、1523年の鏡山城攻撃に出陣し、9歳とはいえ毛利家の当主として敵将の首実検を見て卒倒、以来急に様態が悪くなり急死したとの説と、単なる原因不明の病死の二つの説が取り上げられているが、数ある元就に関する書物の中でも古川薫氏と海音寺潮五郎氏の二人は、幸松丸暗殺説を示唆している。当然元就による暗殺説である。また作家の西条道彦氏も、次男の元就家督相続のいきさつについては『出来過ぎ』の感があり、
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元就が何をやったかはわかったものではないと感想をもらしている。
  そもそも弘元の隠居に始まり、猿掛城での生活、幸松丸や興元の死など、こんにち私たちが知っている毛利家の出来事に関しては、元就の後年の回想に基づいているわけで、氏は『元就の自分史』でもあると喝破。元就の青少年期についてのイメージは元就の『自分史』である以上、そのまま鵜呑みにすることはできないだろう。   
  元就の家督相続の前後に起きた事件を挙げれば、次のようになる。  
  1521年の高橋久光のいいタイミングでの戦死、鏡山城落城の貢献度に対して、元就に対する尼子経久の冷徹な仕打ち(元就の副将への約束は反故にされた上、ほとんど褒美を与えられていない)、家督相続への強い意欲とは裏腹にあたかも家臣一同から元就に家督相続するよう持ち込まれたように工作していること、時親以来の譜代家臣で裏表なく忠義を尽くしていた渡辺勝が元就家督相続に一旦承認しながらも、しばらくして異母弟の元綱を擁立しようとの動きに出たこと、しかもこの渡辺勝を元就は鷲づかみに
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写真は毛利一族の墓に眠る幸松丸の墓

して谷底へつき落として殺したとあるから、その怒りの程が推測できる。さらに家督相続した6年後には、高橋氏を調略によって家中分裂させ一族相争わせ族滅させている。
 元就家督相続と幸松丸の死との因果関係については、真正面から取り上げられることは少ないが、そのなかで先の西条道彦氏の推理がかなり信憑性を持っているのではないかと思う。
  つまり、元就家督相続についての筋書きは、ときの実質的な毛利家の執政者であった志道広良によって描かれたのではないかということだ。元就の武将としての資質は、有田合戦、青屋城攻略、壬生城攻略、坂城攻略、そして鏡山城攻略という輝かしい戦果によって、実証済みであった。わずか9歳の病弱な当主と知将としての実験済みの元就を秤にかけた時、志道広良一同毛利家の家臣の選択はおのずと決定されたのではないのか、と氏は推理する。(『毛利元就の生涯』新人物往来社)  
  実際、幸松丸死亡四日目に早くも志道広良は家臣代表として渡辺勝、井上元兼両名とともに猿掛城へ使者をつ かわし、元就の家督相続の承認を取りつけるのである。同時に譜代家臣の粟屋元秀を京に走らせ将軍
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に元就家督相続の承認を取りつけてさせている。なんとも用意周到な早業である。さらに将軍直々の元就家督相続許可の件をもって尼子経久に報告し、尼子経久に有無を言わさず承認させている。その間わずか10日程である。計画的犯行の匂いがするといってもおかしくはないだろう。そして元就の郡山城入城が8月10日と決定されるのである。
 こういう一連の元就家督相続前後の状況を考えれば、西条道彦氏ならずとも、元就による幸松丸暗殺説もまんざらあり得ない話ではないと思うわざるを得ない。元就という人間は、自分の手は決して汚さず、徹底的に忍人(冷血漢)であり得た人だから、『私がやりました』なんていうようなことは決して言わないし、それを示唆するようなことも残さなかったはずである。いつの世でも勝者は自分にとって都合の悪いことなど書き残さないものだ。ましてや一族族滅させられた高橋氏についての資料など皆無に近いから、幸松丸の死亡についても状況証拠から推測していく意外に手はないだろう。 
  幸松丸暗殺説は、元就という武将の性格や家督相続前後の状況から推測するに、かなり濃厚な灰色であろう。

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