Samurai World>毛利元就紀行>毛利元就のなぞ



 元就の養母・お椙の大方殿のなぞ

  平成9年度のNHK大河ドラマのなかで、身よりのない元就を猿掛城でわが子のように養育してくれたお椙の大方殿には好感が持たれたようで、現在猿掛城近くに所在するお椙の大方殿のものと伝えられる墓への墓参もいまだ絶えない。現地に置いてある墓参者ノートを拝見すると、兵庫県あたりからも家族で見えられた方もおられる。大河ドラマにいたく感動されたようだ。
 テレビドラマで一躍その存在を知られるようになったお椙の大方だが、その出自や弘元との関係などになると詳細はほとんどわかっていない。  ところがここにお椙の大方殿は、弘元の側室ではなかったという説がある。これは作家の和田恭太郎氏の説(『毛利元就の生涯』新人物往来社)であるが、真相に近いものと思われるので紹介しよう。
 
(右側へ)

 

 この説の根拠となっているポイントは、次の疑問点である。つまり、なぜお椙の大方は弘元が死んだ後も、子もないのにそのまま猿掛城に留まることができたのか、または留まったのかという点である。
  この疑問点に対する氏の解答こそが、お椙の大方殿は、一般に考えられていたような側室や側女ではなく、福原広俊の娘亡き後の室女、つまり継室だったという推理である。  側室や側女の身分では、当主亡き後そのまま自己の意志で猿掛城に留まることはできないと主張。毛利氏家中の賛同が得られない、そして元就を養母するだけの独立した経済的基盤がないのである。
  元就の回想によれば、猿掛城では、父から譲りうけた財産約300貫の土地は譜代  

 
(左下へ)


写真は猿掛城近くにある伝・お椙の大方殿の墓

家臣の井上元盛に押領されたので、お椙の大方殿に身を寄せていたとある。
 とすれば、お椙の大方殿は、元就を養母するだけの自前の経済的基盤を持っていたことを意味する。これこそ、お椙の大方殿がたんなる側室ではなく、継室だったことを物語る。つまり、正式な室として弘元のところに輿入れた身分なればこそ、実家から給付された土地や付き人などを従えていたのである。この土地こそお椙の大方殿の自立した経済的基盤である。こういう背景があって初めて、独り身となってもそのまま猿掛城に自己の意志で留まることが可能となるし、家中の者共も継室として待遇せざるをえなかった。  
  次に、元就が『大方どの』と呼称していることから、当主の正室であることを示唆して
(右へ)

 

いる。これはたんなる親しみの呼称ではなく、始めに慣習としての呼称がまず先にあって、その慣習に従って、元就は『大方殿』と呼ぶことをためらうことなく採用していると主張。  以上が氏の推理の要点である。  
  明快な推理であり、この点に関しては、多分真実のような気がする。ただお椙の大方殿がどの家から輿入れしてきたかという点に関しては、氏は石見の豪族高橋久光の養女とされている。高橋久光とは、元就の兄興元の正室の実家であり、興元の嫡男幸松丸の外祖父にあたる。とすれば、高橋久光は、毛利家の当主であった父と息子両人に対して、娘を正室として輿入れさせていることになり、なぜか釈然と割り切れない部分も残る。

inserted by FC2 system