毛利元就は、愛妻家であったというのが通説となっている。特に先般の大河ドラマのおかけで、いっそう常識化したろうと思う。
しかし、よくよく考えてみれば、本当にそうなのだろうか、と私はかねがね思ってきた。 『愛妻家』などという何やら妙に現代的な言葉で、戦国時代の武将、それも非凡な戦国武将を十把一絡げに語り尽くすことができるのだろうか。中世の時代の人間にわたしたち現代人の価値観そのものを適用させようとすること自体が、なにやらおかしいのではないだろうかと思う。
確かにヒトとして時代を超えた普遍的な『感情』や『価値観』があったとしても不思議はないだろうが、言葉の意味するところが違うこともあり得る。
まあ、難しい評論は置いておいて、実際にいろいろな武将たちの足跡を訪ねてみて感じることがある。 元就の正室の墓は、なぜ現存していないのか、という単純な疑問である。
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私は、史跡を訪ねると、必ず墓を写真に撮るようにしている。
墓は、いろいろなことを現代の私たちに語りかけてくれるからである。
ひとつは、当時の人間関係をほのめかす。当時から邪魔者扱いされている人間の墓など、丁重には作らない、それが人間の情である。
もうひとつは、その人物を民衆や後世の人々がどのように評価していたかということである。軽く見ていたり、どうでもいいような認識であれば、後世の人々が墓守などしようもない。郷土の人々にとって重要な意味を持っていればこそ、墓守も数百年の時を超えて永続されていく。伝承されてきた史跡の歴史的意味がここにある。
私がこれまで見て回った経験から、もっとも大切にされていた戦国の女性は誰かと言えば、多分、吉川元春の正室―熊谷信直の二女―『新庄の局』だろうか。
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吉川元春との連署で息子の広家に忠告した手紙が残っているが、戦国時代の女性としては珍しく元春との連署となっている。よほど元春に信頼されていたのだろうと思う。
それに口うるさく小言を言われていた広家のほうも、老いた母を火の山城から出雲の月山富田城へと、そして周防岩国へと領地替えのたびに戦国の世を一緒に連れて行く。
夫や息子たちに一目置かれ、非常に大切にされていたと思われる。
一方、元就の正室『妙久』はどうか。生前のことはほとんどわからない。元就が正室のことを語っているのは、死んだあとのことばかりである。しかし、三兄弟が仲たがいしないように忠告するときだけである。
元就研究家の郷土史家小都勇二氏によれば、『妙久』の墓は、現在の郡山城の洞春寺跡付近にあったと推測されている。しかしなぜそれが現存していないのかについては、言及されていない。
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そしてほとんどの人は、そのことをことさら不思議にも思わない。
元就の養母と言い伝えられている『お杉の大方殿』の墓と伝えられる貧弱な墓も猿掛城跡近くに現存している。
小早川隆景の正室は、隆景が三原で急逝したあとも、生きつづけ関が原の後は、輝元についていって、墓も長州に現存している。
戦国武将たちの妻たちの墓の中には、夫といっしょに仲良く並んでいるものも少なくない。しかし元就があれほど息子たちに語りかけた、正室『妙久』の墓はどこにも確認できない。
『妙久』は元就にとってどんな存在だったのか、はっきりしない。少なくとも私には、元春の正室―新庄の局―ほどの存在感はなかったような気がするのである。
愛妻家元就、正室『妙久』への哀愁、それは元就が息子たちのために懸命に作り上げたイメージのような気がしてならない。
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