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 元就の周辺人物のタイムリーな頓死

 元就が吉田荘の地方領主の次男坊から中国地方随一の大名に成り上がっていくには、いくら孫子の兵法に精通していた男だったとは、いくらかの幸運というものが必要だったのかも知れない。幸運の女神も実力のうちといえるかも知れないが、元就には、その幸運の女神が余りに多く微笑みかけているように思えるのである。中には黒い雲が立ち込めているものもあろう。
 まず最初の幸運の女神が元就に見方したときは、元就の後見人を任じていた井上元盛が、ぽっくり死んだときである。 井上元盛は、元就が多治比の猿掛城に父に死に別れ、一人残されたとき、元就の領地分役300貫を横領していたが、その井上元盛がある時ぽっくり死んだので、元就の領地は幸運にもとり返すことができた。
 井上元盛がぽっくり死んだのは、元就の回想として語られているのである。
 井上元盛とは、元就が1550年に一族誅殺したあの井上一族の一人である。
 次は1516年、元就20歳のとき、兄興元がぽっくり死ぬ。酒害であったと言い伝えられている。兄興元は、元就より5歳年長であるから、このとき25歳の青年であったことになる。
  兄興元は、15歳で大内義興の上洛戦に従軍し、京都での戦に参加した。

 

 しばらくして京都での戦に愛想がついた安芸の国人領主たちが相次いで国元に帰還したので、興元も一緒に吉田に帰還したと思われる。
 吉田に帰っては、父広元の遺言にも従わず、隣国の宍戸氏とたびたび戦を交える、なかなかの戦好きな武将であったようである。
  次は、1521年、まだ元就が幸松丸の後見人を任じていたころで、実質的な後見人として元就を差し置いて毛利家家政に容喙していた外祖父の高橋久光が、仇敵三吉氏の支城青屋城を陥落させたあとの油断から、敵にあっさりと首を取られる。
 これで元就は、実質的に幸松丸の後見人として毛利家を代表して事にあたることができるようになる。
  次は、当時の毛利家当主幸松丸のぽっくり死亡で、これについては、すでにこのシリーズでも取り上げた。
 1523年、尼子経久の軍に参加しての鏡山城攻撃から帰ってしばらくすると、当主幸松丸がぽっくり死んでしまうのである。
 これで毛利家当主の座が転がり込んでくることになる。しかしそのためには、異母弟の元綱とその一派を消す必要があったのである。


写真は銀山城攻めの際に死亡した竹原小早川家当主、小早川興影夫妻の墓

 次のぽっくり死亡事件は、1541年に安芸の旧守護職で尼子氏に肩入れしていた武田氏の銀山城を攻略中、竹原小早川氏の当主小早川興景の死亡である。
 陣中での病死と一般には言い伝えられている。この銀山城攻め、なかなか正面からの攻撃では落ちる城ではなかったので、元就が周囲の反対を押し切って夜討ちで急襲しようと提案したという。
 当時、まっとうな武士にとっては、夜討ちなど卑怯で、考え及ばない作戦であった。元就は、雨の降る夜決行し、まんまと城を落とすことに成功する。この作戦に従軍していたのが、スッパ、ラッパや中間、下人など中世の傭兵たちであったことは容易に推測できる。
 これで安芸の名門武田氏は名実ともに滅ぶのである。
 元就が小早川興景の跡目に三男隆景を竹原小早川氏の養子に入れるのは、これから3年後の1544年である。
 さらに小早川氏の悲運は続く。  
 1543年、大内義隆の出雲尼子氏征伐遠征は失敗し、5月7日月山富田城を見下ろす京羅木山に陣取っていた大内軍は直ちに撤退を開始する。
 こういうとき、一番危険な役割を担わされるのが、殿(しんがり)である。追撃兵と落ち武者を狩る狼藉者たちの餌食にされてしまうからである。
 このとき殿を務めたのは、毛利軍と小早川軍である。
  元就がこの遠征から帰還途中、絶体絶命の危機に遇い、元就の鎧を着けて身代わりとなった家臣渡辺通ら七人の忠義は有名な話である。現在でも七騎落ちの史跡が島根県温泉津町に残っている。  

 

 もう一方の殿を勤めた沼田小早川家の当主小早川正平は 、追撃兵に追いつかれて討ち死にしている。まだ出雲の地を出ないときである。元就と正平は途中までは同じ行程を退却していたはずであるから、このとき元就は何をしていたのだろうか。自分だけ必死で逃げていたのだろうか。
 元就が沼田小早川家の当主正平の息子繁平を隠遁させ、あらゆる反対勢力を消して、隆景を本家沼田小早川家に入れるのは、これから7年後の1550年のことである。
 最後のぽっくり死亡事件を飾るのは、大内義隆としよう。
  大内義隆を自刃に追いこんだのは、陶晴賢であるが、しかし、事前に陶晴賢から謀反のことは連絡を受けており、大内義隆殺しについては、陶晴賢との共犯であることは、今では歴史研究者の間では常識となっている。
 以上、元就が一回の地方領主の次男坊から中国地方一の大名にまで出世していくに際して、重要な転機となっていく人物のタイムリーな死亡事件を列挙してみたが、今となっては、元就と死亡者との関係などについは確かめる術もないが、多くの歴史家の間では元就の謀略と疑われているものも少なくない。
 それは、元就という人間のあまりにも権謀術数に満ちた人生が背景にあるからである。





(Takashi Horinouchi)

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