Samurai World>毛利元就紀行>毛利元就のなぞ



元就は誰から兵法を学んだのか

 元就が中国の兵書『孫子』に精通していたことは、彼の事跡を追跡してみれば即座にわかることだが、いったい元就がいつ、誰から兵法を体系的かつ本格的に学んだのだろうか。  毛利家の先祖、大江広元が源頼朝に請われて鎌倉に下っていったことは、北条時宗と毛利元就の関係などでも言及したことだが、実は、源氏と大江家との接点はもっと数代先に遡れるのである。
 八幡太郎義家が、当時関白藤原頼通の邸宅で陸奥国平定の自慢話をしているのを耳にして、大江匡房が『好漢、惜しむらくは兵法を知らず』と呟いた。それを聞いていた義家の家来が義家に告げたが、逆に義家は匡房に師事し兵法を体系的に学んだという。
 その義家、後三年の役で金沢の柵(砦のこと)を攻撃したとき、敵陣から数里前のところで、雁が列を乱して飛んでいたのを見て、伏兵がいることを見抜いて危機を回避したことは、有名な話であるが、これなど義家が匡房に兵法を学んでいたから助かった、とのちに述べたと言う。
 大江匡房は、四才にして書を読み、八才にして史記と漢書に通じるほどの天才であったので、後三条天皇、白河天皇、堀河天皇さの侍読となったほどの人物である。  

 

 大江広元は、匡房から三代あとの当主である。源氏と大江家との接点は匡房と八幡太郎義家のときに遡れると言えよう。
  代々大江家は、兵法を独自に体系化した江家伝来の兵法を伝えていた。
  広元の曽孫にあたる毛利時親が、河内国で若き楠正成に兵法を授けたというのも、あながち根拠のないことではあるまい。
  安芸の吉田の荘に越後から一族郎党率いて下ってきたのも、その時親のときである。したがって安芸の毛利家にも代々『江家兵法』は伝わっていたはずである。  
  ところで、毛利元就は、どこで誰から兵法を体系的に学んだかということである。  
  彼の生涯にわたる戦いの神髄は、孫子の兵法の神髄でもある、『戦わずに勝つ』、『勝算なきは戦わず』という原則に貫かれている。
  またもうひとつの原則は、『戦いは詭道』(騙しあいということ)であるということと、『紆直の計』にも貫かれている。  
  元就の初陣と知られている有田中井田合戦で旧守護武田晴繁を打ち取った戦いも、兵力の上では劣勢だったにも関らず、相手を元就のペースに誘い込んだ巧みな心理作戦である。


写真は志道氏の墓
志道広良の弟通良は、羽須美口羽に城を構え口羽氏と名乗る。
輝元の代、毛利4人衆の一人として毛利家中枢の一人でもあった。

 元就21才のときで、これにより元就の名は大内義興の耳に入り、かなり広範囲に評判となった模様で、さらに京都の将軍がどのように思われるか打診している。  
 さらに26才のときには、有田城城主の一族山縣氏の篭る壬生城を攻略するが、この時使った計略は、城主の一族山縣筑前守元照を毛利氏の被官とし、領地を安堵するということで、城主から離反させる作戦である。この一年後に行われた鏡山城合戦のとき、元就が取った計略とまったく同じである。
  このように元就の戦いは、すでに初陣のときから、人間の心理を巧みに突いた戦法を採用していて、これは元就がかなり若いときから何らかの兵法に関する知識を持っていたことを物語っている。
  また、人間の生涯にわたる性格や物事に関する基本的な思想は若いときの形成が核となっていて、現在の子供たちに言えば、中学生から高校生にかけての思春期が人間の教養と思考に決定的な時期であることは明らかであろう。 
  したがって、元就が兵法の知識を仕入れたのは、少なくとも20より前の段階と言えよう。
  それでは、元就は15才前後どこで何をしていたのかといえば、猿掛城で次男坊としてのわびしい生活を送っていた時期である。兄興元が大内義興に従って京都に上っていくのが、元就10才のときであるから、

 

それ以降10年近くは、元就の回想によれば、孤児同然となって、家臣の横暴にもじっと耐え、冷や飯を食わされていた時期である。  
 元就の回想によれば、そんな元就をわが子の様に育ててくれ、念仏も教えてくれた人に、父広元の継室『お杉の大方』がいた。しかしお杉の大方が元就に兵法を授けたとは考えにくい。  
 ところが、もう一人少年元就を援護してくれた人物がいる。
 志道広良である。同じ毛利一族で当時毛利家執権として、実質的には毛利家の長老として家政を取仕切っていた人物である。  
 志道氏は、毛利一族坂氏からさらに分かれて一族で、現在の広島市安佐北区白木町に本拠を定めていた。  
 志道広良は、元就が毛利家家督を相続する際にもっとも積極的に動いた人物で、元就の毛利家相続は、この志道広良が青写真をひいたのではないかと私は思っている。  
 この志道広良こそ、少年元就の資質を見抜いて、少年元就に兵法を学ばせたのではないだろうか。直接彼が講義したか、またはだれか僧に学ばせたかはわからないが、志道広良こそ、少年元就に兵法の大事を授けた人物だったのではなかろうか。 



inserted by FC2 system