毛利元就紀行小早川氏の家系と歴史



関連情報は、古城紀行―有福城にもあります。

 小早川氏を語るときに、まず語らなければならない人物は、土肥実平のことであろう。
土肥実平は、源頼朝の平氏打倒の挙兵以来、頼朝の側近として頼朝を支えた武将として有名な人物である。
 土肥実平は、関東平氏の一族中村氏の次男として誕生し、相模国の土肥郷を与えられたため、土肥氏と名乗るようになった。現在の神奈川県足柄下郡河原町一帯である。また隣接する早川荘も領していた。これは現在の神奈川県小田原市に属する。
 1180年頼朝が挙兵すると直ちに嫡男の遠平とともに頼朝のもとにはせ参じている。
しかし、緒戦の石橋山合戦ではかなくも敗れると、再起を期して真鶴崎から房総半島へ渡り、そこで関東の諸豪族たちを集めて、再度平氏打倒へ向かっていくことになるわけである。 
 ところで、石橋山合戦で敗退した頼朝を、領地である土肥郷の洞窟の中でかくまったことは有名な話であるが、終始落胆した頼朝を励ましたのは、武将として長年の経験を積んでいた実平であった。

 

 土肥の本拠が敵方に焼かれる様を遠くから眺めて、頼朝を慰めるたるに、舞を舞ったと伝えられている。
 再起を期して対岸の安房へ渡るが、息子の遠平には、頼朝の無事を報告するために北条政子のもとへ走らせている。
 もし小早川実平の支えがなければ、頼朝は石橋山合戦で敗退した跡、落胆のため自害していたのでなかろうか。そうすれば、当然鎌倉幕府は歴史上に登場することはなかったかも知れない。
 頼朝が鎌倉に実質的に武家政権を樹立し、西国で依然として勢力を有していた平家を駆逐するために軍を西に向けていくが、実平・遠平親子も源範頼、義経を総大将とする軍に侍大将として、軍略、政務の処理などに従事している。
 一の谷合戦後、さらに西進するために、頼朝は山陽道方面の拠点を確保すべく、梶原景時と土肥実平を惣追捕使に任じ、実平は備前、備後、備中三カ国の惣追捕使として国衙の在庁官人を支配し、国務を執行したりしている。


写真は土肥実平・遠平親子が最初に館を構えた所と
推測されている三太刀の丘
他に高山城山麓の塔の岡という説もある。

 惣追捕使とは、後の守護のような在地の行政官兼軍事指揮官のことである。
 しかし、なかなか容易には平家打倒の戦は埒があかず一進一退の様子を呈していたので、頼朝はついに義経を起用せざるを得ず、土肥実平も義経の軍に従い、壇ノ浦まで行っている。
 頼朝は一方では実平のことを信頼できる側近として見ていたようであるが、他方では武骨ものではあるが、老獪な武将としてなかなか油断のならない人物としても見ていたようである。『吾妻鏡』の中で『千葉常胤、土肥実平といえば清濁の区別もわからぬ武士で、多くの所領をもっているが、それでも質素な服を身にまとい、節約を心がけているので、その家はますます富裕の評判があり、多くの郎従を養って、いざというときに備えている』と言っている。
 実平は1185年の守護地頭の設置に伴い、備後の守護に任じられ、1190年から在庁官人から不法を本家の院へ訴えられているところなどから、頼朝が幕府を開く前後まで備後の地にいたのではないかと推測できる。

 

 頼朝がなかなか鎌倉へ帰ってこないことから、実平に催促したのに対して、実平は老齢を理由に鎌倉へ帰ることができないようなことを言っていることが伝わっていることと併せてみても、実平の老獪な一面を見る思いがする。
 実平が備後の守護として居城していた城として現在の広島県上下町に有福城が残っているが、小早川氏の祖として現在の本郷町に下ってきたかどうかは定かではない。
 沼田川沿いに『三太刀』と呼ばれている丘陵があるが、これが小早川氏最初の居館跡ではないかと推測されている。『三太刀』とは『御館』の呼び名であることからこう推測されている。『芸藩通志』によれば、三太刀の由来として、遠平が父実平に従いこの地に来た時、この山に三本の太刀が降る夢を見たので三太刀と名づけたという。
 遠平、実平の時代は伝説の域を出ず、実際に安芸国沼田荘に城を構え、大規模な領地開発を行い、その後の小早川氏発展の基礎を作り出したのは、実平の曾孫茂平の時である。                
(堀ノ内)  

inserted by FC2 system