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一枚の絵図から見る戦国時代の山城と館


ここに一枚の絵図があります。


安芸地方の志和堀(現在の東広島市志和地方)を治めていた国人領主天野氏の後期山城、生城山城跡とその麓に描いてあるお寺の絵図です。このお寺は、その昔から地元では『殿様屋敷』と呼ばれていたもので、この呼び名から、このお寺の境内が、戦国時代天野氏の居館跡と推測されています。
 天野氏が毛利輝元の長州転封にしたがって、萩に移ったあと、その館跡に寺が建立されたわけです。
 この絵図から推測されるように、戦国時代後期になると、戦がおおくなり、その防衛上から、戦国時代前期の丘陵地や小高い山を利用した館と城が兼用されていたようなシステムから、城を要塞化する必要上、より高く険しい山へと建造され出します。
 それと同時に、領主などの普段の生活は、山城の山麓に居館が作られ、そこで生活や政治が営まれるようになります。 いざという時、領主や領民が山城に籠城するようになります。現在の日本のあちこちに『土居』という地名が残っていますが、これは戦国時代の領主たちの居館があったことの名残です。皆さんの近くにもあるか地図を見て下さい。バス停の名前などにもそままま使われていたりします。『上土居』とか『下土居』とかね。
 この絵図に描いてあるお寺の部分をそのまま、屋敷と置き換えれば、戦国時代の国人領主の山城と館とのイメージがつかめると思います。

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