名門守護大名大内家を繁栄の絶頂から
滅亡へ転落させた異色の公家大名



写真左は、大内館跡。他の戦国時代の大名と比較すれば、出雲遠征後の大内義隆は異色の存在で、山口に京都の文化を盛んに導入し、当時では京都を凌ぐほどの隆盛を誇っていたと言われる。京の公家たちがこの大内館で日々雅やかな生活をしていたものと思われる。
写真右は、西の京都と言われた山口の大内文化を今日までしのばせている瑠璃光寺の五重塔。
陶晴賢の謀反を聞くと、大内義隆は、大内館から近くの築山館へと避難し、さらに高嶺山麓の法泉寺へと退く。さらにそこから遠く長門に逃れ、そこから船で津和野の吉見氏を頼って逃れるつもりだったと言うが、風雨のためかなわず、再び長門の大寧寺に引き返す。
写真左は、義隆が兜を脱いで髪を整えようと池に顔を映してみようとしたが映らなかったので、ついに運命を悟ったと言い伝えられている『姿見の池』。
従容として運命の尽きたことを悟った義隆は大寧寺に入り、禅問答した後、自害して果てたという。最後まで義隆に従った重臣の冷泉隆豊は、敵の前で腹を切り裂き、その腸を敵めがけて投げつけたと言う。

写真右は、 冷泉隆豊がはらわたを投げつたと言われる経蔵門跡。説明図をクリックすると冷泉隆豊の辞世の句が読めます。
写真左は、冷泉隆豊に因んでつけられた『冷泉坂』この坂を登っていくと主君の大内義隆の墓がある。
写真右は、大寧寺の一番奥まった高台の林の中にたたずむ大内義隆親子の墓。この周囲に、義隆とともに殉死していった冷泉隆豊の墓や従者たちの墓が義隆を取り囲むかのように配置されている。

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