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第1回  山内氏と尼子氏と奥出雲の鉄

有力な関東御家人で、全国に広大な領地を所有していた山ノ内氏が、中国地方でも有数の豪雪地帯である、地毘の荘園を本拠として関東から一族挙げて移動してきたのか。昔から荘園として開墾されていたとはいえ、決して豊かな恵みをもたらしてくれそうなところではなかったはずである。
これには、2つの大きな理由が考えられる。
ひとつは、当時の鎌倉の政権である。源義家以来の郎党として源氏と深くかかわってきた山ノ内氏にとって、源氏に代わって政権を掌握していた北条氏の独裁的雰囲気の中で、活路を見いだせないでいたであろうこと。
この当時の得宗体制といわれる北条氏本家による専制政治のなかで、頼朝以来の多くの関東御家人たちが、その行動に関して締めつけがあり、地盤である関東から移動していくことになる。
  山内氏もそういう関東御家人たちの仲間であったということである。
 ところで、なぜ豪雪地帯の地毘の荘園でなければならなかった。温暖な伊勢でもよかったのでないのか。
ここに鉄が登場するわけである。全国に豊かな領地を所有していた山ノ内氏がわさわざ寒々とした地毘の荘園を選択した大きな理由は、この地方の豊かな鉄資源に尽きると私は考えている。
 雲と鉄、これは日本古代史の深層を貫いている太い一本の糸である。 鉄なくして古代出雲は語れず、そして日本古代史も語れまい。
地毘の荘は、奥出雲と呼ばれる位置にある。出雲と備後との国境周辺にあたる。

(下左へ)
山内氏歴代墓所
ところで、山陰の覇者となった尼子経久の軍事力の背景にも出雲の鉄資源があると考えている。尼子経久は、京極氏守護代として務めていたのを、京極氏から月山富田城を追放されて、再び富田城を奪回するのだが、その間の尼子経久の消息ははっきりしないが、伝えられるところでは母方の実家で力を蓄えていたという。母方の実家とは、奥出雲なのだ。ここに奥出雲と尼子経久との線ができるわけだ。 さらに奥出雲を接点にして、尼子氏と山内氏との接点ができることになる。
 山内氏は、奥出雲を接点として出雲の尼子氏と深い関りをもっていた。尼子経久の代にその勢力が最も大きくなり、当時は家督相続にまで口出しされていたようである。そのあらわれが、分家の多賀山氏であった隆通(たかみち)の山内氏本家の家督相続であろう。

(右側へ)
  これによって尼子経久は、備後最強の国人領主であった山内氏本家をも完全に支配下に置こうと考えていたはずである。しかし山内隆通のとき、山内氏は毛利元就の支配下に下る。この両者の仲介役となつたのが、山内氏の外孫にあたる宍戸隆家である。
 余談になるが、宍戸隆家は母方の実家である山内家で6,7才まで養育されて、それを祖父の宍戸元源が宍戸家の跡目として引き取ったことになっているいる。(この間の経緯もミステリアスでおもしろい)
 山内氏が備後最強の国人領主として成長していったのは、決して地毘の荘園の恵みだけはなかったであろう。それは、尼子経久が山陰から山陽にかけて勢力を持つに至った原動力と同じであったろうと考えている。奥出雲の鉄、それは戦国時代へと突入していく時代の中で、支配者に多くの富と軍事力を与えてくれたであろう。

                   
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