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第3回  ポルトガル人は二度種子島に来た

 前回 鉄砲伝来のことについて書きましたが、鉄砲伝来の史実については、1543年説と1544年説が資料的にあるようです。
そもそも私たちが学校で教えられている鉄砲伝来の年1543年説は、鉄砲に関する日本側の唯一の資料である「鉄砲記」に拠るものです。「鉄砲記」というのは、薩摩の大龍寺の禅僧南甫文之が種子島時尭を顕彰するために書いたものです。これが私たちが教えられている鉄砲伝来に関する史実の裏付けとなっているものです。

それに対して 実は当のホルトガル側の資料もしっかりとあるわけです。その資料は、ポルトガルの東南アジアの商館長をしていたアントニオ=ガルバンという人が書いた「新旧大陸発見記」というものです。これによれば、三人のホルトガル人がシャムからジャンク船に乗ってニンポーに向かうところ、途中で漂流してしまい、種子島らしき島に漂着したというものです。
この一見すると矛盾する年代について、合理的に説明し、鉄砲伝来の前後のイメージをクリアにする仮設を今回は紹介しましょう。

種子島開発センター落成シンポジウムでの諸氏の公演をまとめたものが「鉄砲伝来前後」という本として出版されていますが、その中で所荘吉氏が説得的な仮説を展開しておられます。

要点は、こうです。1542年にポルトガル人が漂流して日本のある島に漂着して、彼らが貿易相手国か金儲けの相手としていい国を見つけたという情報を携えて東南アジアかインドのポルトガルの拠点に帰る。そして翌年今度は 本気で鉄砲という商売道具を携えて、日本を目指したというものです。ホルトガル側からすれば、日本という国を発見したという意味で、歴史的事件として書き留められ、日本側からすれば鉄砲と南蛮人とに遭遇したという意味で歴史的事件として書き留められた。これでどちらの資料の事実も矛盾することはないのではないか、以上が氏の仮説です。

この仮説に対して、さらに補説されているのが、武光誠氏です。「海外貿易から読む戦国時代」(PHP出版)の中で 所荘吉氏の仮説を受け入れながらも、なおそれではなぜ、東アジア貿易港として栄えていた博多などではなく、種子島にこだわり続けたのか、という疑問を挙げられ、それについては、種子島に鉄砲を持ってきたポルトガル人は、ホルトガル国王認可ではなく、自分たちの一時的な金儲けのために、倭寇と手を組んできたのではないのか、という推測です。博多に入港すれば明の役人と遭遇する危険があり、このときポルトガル人と手を組んでいた倭寇のボス的存在だった王直が捕らえられる危険があつたのではないかと推測しておられます。
さらに、王直の真の狙いは、鉄砲の売込みではなく、鉄砲に欠かせない火薬の原料である硝石の売り込みこそが、真の狙いだったと言います。

ポルトガル人 種子島再来説は、所荘吉氏も先の「鉄砲伝来前後」の中で言及されていますが、ポルトガル側のもう一つの資料エスカランテの「ビリャロボス遠征報告」という報告書を元に、ドイツ人司祭のゲオルク・シュルマーという人が分析している論文が1946年に発表されていることを五野井隆史が「大航海時代と日本」(渡辺出版)という本の中で言及されております。シュルマー氏の説では、1542年の一度目の来日は琉球行きであり、1543年の二度目の来日が、種子島への来着ということらしいです。しかし、当時のポルトガル人たちのアジア認識のレベルから推測すれば、琉球と言っても漠然とした島々のまとまりでしかないことを考えれば、琉球も種子島も似たようなものだったとも言えます。

  五野井隆史氏も指摘されているように、重要な事実は、1543年の種子島来着の時には、倭寇の王直のスポンサーでホルトガル人が来日している事実に注目されていることです。これは、当時の環シナ海というボータレス時代の中で、倭寇とホルトガル人たちの非公式貿易が活発に行われていたことを意味し、日本への鉄砲伝来も密貿易活動の延長線上にあったことが読み取れます。

このように、ポルトガル人たちは、インドのゴア、マラッカあたりに進出きたあとは、頻繁に中国沿岸部を北上し、日本へと進出してきていたわけですから、遅かれ早かれ日本人と南蛮人との出会いは避けられない運命だったと言えます。
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