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第10回  百姓は米を食べていた


 現代の私たちの封建時代の農民などについてのイメージのひとつに、農民は悲惨な状態にあったというイメージがあります。テレビドラマなどを通じて、知らす知らずのうちに、江戸時代の農民のイメージを作り上げているような気がします。
 例えば、白い米など一年のうちに正月くらいしか食えなかったとか、主食はほとんどが麦、粟、稗にその他の雑穀類、大根や干物の葉のようなものしか、口にできないほど悲惨な状態で生きていたとか、そんな農民に対するイメージが大方の日本人のイメージではないでしょうか。
 しかし本当にそうだったのでしょうか。私の家も農家だったので、そんな農民に対するイメージが気になっていました。そして決定的な懐疑を私にもたらしたのは、学生時代に何かの本の中で読んだことがきっかけになりました。
 つまり、その本に拠れば、江戸時代の日本人の人口は、約3000万人。そのうち士分階級が約5パーセント余りです。

商人、職人など非生産者を除いた、生産者の人口が約85パーセント。日本全国から生産される総生産量が約3000万石。人間一人が一年間で食べる米の量が約一石。どんなに武士や町民が頑張って米を食べても、一年に生産される米は食い尽くせないだろうという素朴な疑問です。残りの米は、どこへいったのでしょうか。<br>
 江戸時代、米は貨幣としての意味合いも持っていたことは周知のとおりですが、しかし貨幣と米の決定的な違いは、米は金庫に10年間、20年間預けておいたら、ゴミになってしまうということです。つまり消費しなければいけない。多分すべて消費されたと考えるのが自然です。

 しかしそれ以上追求することもなくほって置いたままになっていましたが、同じ疑問を持ち、明確な解答を出しておられる方に最近出会いましたので、ここで紹介することとします。
 石田米孝氏の『廿日市の歴史』という本です。廿日市は、現在の広島県廿日市市の一部を構成している、昔から宿場町として栄えてきた街です。

  この中で、石田氏は廿日市の江戸時代の細かいデータを挙げて江戸時代の農民がしっかり米を食べていたであろうことを示しています。データは江戸時代、廿日市にあった平良村のデータです。江戸時代になると農村のデータを詳細に記録しています。
 平良村の慶長6年に算出された石高が約1,997石。元禄12年の課税が、前年度の実績を参考にして三割三分で約659石。しかし表向きの石高1,997石のうち、その後の田畑の変遷に伴って減少した分を引くと、実際の元禄12年の平良村の石高は、約1,229石。
 さらにこの中から、屋敷内での収穫高約35石を差し引いて、1,246石。これが自由に農民が采配できる石高。この中から課税分の約659石を差し引くと、約587石。これが平良村の農民たちに残された米となります。ところで当時の平良村の住民は923人。単純に計算しても、923人の人間に約600石の米が残されていることになり、彼ら平良村の農民たちが、この600石の米を食わずに、粟や麦、稗ばかり食べていたと考えるのは、逆立ちしても無理があるといういうものです。それとも廿日市の海に捨てたとでもでも言うのでしょうか。

 明らかに、余った相当量の米は、農民が消費していたであろうことは推測がつくと言うものです。923人の中には、幼児、子供、老人などさまざまな人々がいることを考えると、白い米をかなり食べられたことがわかります。米では足りない部分を他の雑穀類で賄っていたというのが、本当の史実だろうと思います。時には、自然災害などによって被害を受けて、生産量が激減した時もあろうと思います。そうした飢饉の時のイメージの方を、現代の私たちは優先させて農民のイメージを作り出していたのではないでしょうか。農民に対する何やら暗いイメージを勝手に作り出していたような気がします。そしてそのイメージが逆に農民を縛る。作り上げられたイメージは怖いとつくづく感じます。




写真は折敷畑合戦場からの風景 廿日市の街と遠くに厳島宮島が遠望できる
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