Samurai World>歴史再発見




第11回 山城は山城ではなかった その1

  中世武士の姿をテーマに追いかけているわけですが、中世武士と山城、居館、菩提寺(寺社)というのは、何度も取り上げているように、セットになっているわけです。しかし、もうひとつ見落としてならないのは、城を中心とした流通経済の場、つまり中世の市です。

 中世武士団の姿を考える上に、山城、館、菩提寺、そして市この4つはセットになっていると考えた方がいいようです。市を考えると、山城と経済そして武士団がリンクしてくるのがわかります。流通経済と武士とをセットにして考えないと、中世武士の本当の姿は見えてこないだろうとつくづく思うのです。あちこちの山城を見て回ると、そのことを実感します。

 何を実感するのかと言うと、まずそのロケーション。
山城は、たいてい河川の近くに構築されています。ひとつには、河川を天然の堀と考える戦術的な意味合いもあると思いますが、ただ単純にそれだけが理由ではないと思います。

 現在の我々は、河川交通という意味合いをあまりに過小評価しすぎていると思います。これは陸上の交通が発達してきた江戸時代以降の考え方、パラダイムです。特に現代の自動車輸送による流通経済の発想ばかりに気を囚われていますが、中世までの流通、交通の大動脈は間違いなく水運です。つまり河川は高速道路であり、海はジェット旅客機であったということです。  海の道や川の道という視点を取り入れないと、中世までの歴史は、なんだかはっきり見えてこない、そんな思いがあります。

  ところで河川と海との境目というのをご存知でしょうか。どこで川と海とを区切るのか。実は面白いことに、海から上る船がいけなくなる障害物、橋のようなものがあるところまでが、海という定義だそうです。現代でもそうなっています。
 現在では、大きな河川は、河口の海岸近くに橋がかけられ、それ以上船が川の上流にいけないので、川と海との境界線は、ほとんど海が見えるところにありますから、我々は不思議に思いませんが、これが中世のころの風景を思い浮かべていただきたい。橋がないわけですから、海からの船はかなり上流にまで川を遡ることができるわけです。
 これはわれわれの常識を覆してしまうだけのインパクトをもっています。しかも当時の河川は現在の河川の水量よりかなり多い。現在はダムなどでかなり水量が減ってしまっているからです。

 このような海の道、川の道という視点を取り入れて改めて、各地にある山城を見ていくと、いままでの山城の姿とは別の姿が見えてきます。

 皆さんは、山城といえば、中世の戦闘だけを前提にした要塞のようなものでしかない、そんな視点からのみ山城を見ているのではないでしょうか。郭とか空掘とかそんな戦術的な技巧にばかり目が向いているのでないでしょうか。
 たしかに戦国時代末期の高い山を利用した山城には、そうした要塞としての機能が多く付加されていることは間違いないことですが、しかし山城の本当の姿はそれだけでは読み解けないと思います。

例えば、広島市は、大田川が作り出したデルタの上に出来上がっている街ですが、江戸時代まで、大田川の30キロ以上も上流にある加計町あたりまで船は行き来していたと言います。 現在でも、船宿の跡が上流の太田川沿いに残っています。また太田川上流15キロくらいのところに開けている可部町という町がありますが、ここは戦国時代には熊谷氏の支配するところで可部の街を見下ろすかのように熊谷氏の居城高松山城跡がそびえています。
 古代のころから瀬戸内海を行き来する船が、このあたりまで往来していたことが知られています。

 つまり古代より中世まで、可部の街あたりは、現在の感覚で言えば、海です。熊谷氏の居城から太田川河口までの間に、香川氏、大田川水軍の福島氏、そしてそれらを統括していた武田氏がそれぞれ城を構えていました。すべて大田川の水運流通を抑えるためだと思います。
 また太田川に流れ込む三篠川というのがありますが、この上流から毛利輝元は大阪城築城のための木材を切り出させては大田川へ、さらには瀬戸内海を経由して大阪へと運んだのです。
 この三篠川の木材切り出し地点は、毛利一族志道氏の居城がある付近ですから、河川交通がいかに内陸部にまで入り込んでいたかが想像できます。現在の水量が激減している川を見て、想像してはいけません。

 実は、毛利元就という武将の本当の野望というか、本当の姿は、この海の道、川の道の視点から考え直さないと、見えて来ないだろうと最近は思っています。
 彼は郡山城という山の城から世界を見ていたのでなかった、実は川の城、海の城から当時の世界を見ていたのではないかと思っています。

 最後に、山陰の大豪族益田氏の居城七尾城と益田氏の館そして、益田氏が大陸との貿易をしていたベース基地とでも言える、益田川沿いにあった船着場『今市船着場』を例として挙げておきたいと思います。

 益田市を訪ねてみればわかるように、七尾城のすぐ麓に館があり、七尾城の堀は、益田川の流れを変えて、取り込んだものです。そしてその下流に市場町を作り、そこから朝鮮、中国へと船を派遣し、膨大な利益を得ていたわけです。七尾城の下を流れる益田川と日本海との境界線は、現代の我々が考えるような明確な境界線などなく、どこから海でどこから川か明確な境界線などなかったと言えます。そんな視点から山陰を代表する本格山城益田七尾城(この山城は落城した歴史がないのです)を眺めてみると、単なる山城なんかではないと理解できます。そこは当時の流通経済センターだっと言えのです。因みに益田藤兼と次男で家督相続者益田元祥親子がはじめて、毛利元就に拝謁するために吉田郡山城に下向したとき、吉田衆はその貢物の膨大さに圧倒され、その中には、北海道産の昆布やトラの皮などがあっとります。いかに益田氏が広域的に交易していたかがこれでわかろうというものです。

中世の武士が山の城なんかにこもって、いくさや山間の田畑の事ばかり考えていたと思い込むのは、とんだ誤解であるということになります。

inserted by FC2 system