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第12回  合戦はビジネスだった その1



写真は有田中井田合戦の古戦場跡に佇む 武田一族、己斐宗端の供養塔
この付近に、かつては戦死者を葬った千人塚もあったとか

 
 初回は、毛利元就の初陣としても知られている『有田中井田合戦』を取り上げてみたい。

有田中井田合戦とは、1517年、旧安芸国の守護であった武田氏が、勢力回復と安芸国の平定のために現在の広島県千代田町にあった有田城を中心に展開した合戦である。
 武田氏の総大将は武田元繁。兵力は約5000。当時はまだ武田氏配下だった熊谷氏や香川氏なども参加している。
 対するは、吉川勢若干と毛利軍兵力約1500。といっても元就が吉川勢との合力を嫌がったというから、ほとんど毛利軍。総大将は毛利元就。初陣である。年は若干20歳。<br>
 この戦いは、結局毛利元就の大勝に終わってしまうのだが、この戦いのどこがおもしろいのか。これはもう現場を再現してもらうしかない。
 この戦いに武田方の武将として参陣していた香川行景は、現在の広島市安佐南区八木に城を構えていた地頭あがりの国人領主であったが、その子孫は後には毛利氏に与力し、吉川元春の家臣として活躍していく。吉川広家の代に、家老職として岩国吉川家に仕える。現在でも岩国吉川氏の武家屋敷の一角にひときわ目立つ屋敷が残されている。それが家老香川氏の屋敷跡である。

 これから紹介する『陰徳太平記』はその香川氏の家に生まれた香川正矩によって元禄年間に書かれた中国地方の戦国物語である。度を越した美辞麗句が目に付くが、正史でないがゆえにかえって、戦国時代に生きた『古武士』の生き様が素直に書かれている。
それでは香川氏に『有田中井田合戦』の現場に連れて行ってもらおう。

  『一方元就は、井上・渡辺に向かい、「見境なしにかかろうとするな。武田がもし後詰に来れば、味方の敗亡は目に見えておるではないか。元繁とても、これぐらいの策を知らぬほどの愚将ではない。ただ今の今にも寄せて来よう。敵のまだ近付かぬ先に、急ぎ攻め破ろうとしておるのだ。早くそこを放されよ」と叱った。両人は「ごもっともです」と馬の口を放して、自分たちも真っ先にと進んで行った。元就はつっと駆け出し、「なぜここを押し破らぬか」と、自らいちばんに棚に手をかけると、軍兵どもはこれを見て、手に手に棚を引き破り、討たれても切られてもすこしもひるまず、一度にどっと押し入った。一番手、井上源三郎就良は、突いてかかってくる敵二人と渡り合い、やがて一人を突き殺す。残る一人は甥の井上源二郎就助が、太刀で足をなぎ払い、首を切り落とした。

 さて源三郎が突き殺した敵に、桂元澄の郎党なにがしという者が駆け寄って、首を切り落とすうちに、源三郎が血染めの槍を引っ下げて、元就のもとへ帰り、実検に供えると、元就は「一番槍たること、疑いなし」と称賛した。その次に源二郎と桂の郎党が同時に馳せ参り、どちらも自分の功を主張した。源二郎は太刀の柄に手をかけて、「源三郎こそ一番槍、またそれがしはいちばん高名じゃ。おのれは、源三郎が突き伏せた死人の首を切り取って、それがしと一、二番を争うとは奇怪千万」と怒ると、元就は「とかくの問答は無用、わたしが、ここにてしかと見届けた。源二郎のいちばん高名は明らかなところ。また桂の郎党も、心ばせ人にぬきんでているゆえにこそ、井上らに相続いて高名をとげたもの。いかにも神妙、この上ない手柄」と称賛した。摸稜の手を用い、まるくおさめたことは、ありがたい心遣いであった。

 さて三番手には粟屋源次郎が、真っ黒の鎧を着た六尺ばかりの大男の出て来たのを見て、馳せ向かい「だれか」と問えば「末田の源内」と名乗る。「粟屋源次郎」と応えて渡り合い矛先から火の出るばかりに闘ったが、粟屋がついに突き勝って、首をかき切り、切っ先に貫いて高く差し上げ、意気揚々と引き揚げて来た。ところがそこへ、後ろから飛び来る矢が一筋、粟屋の高股にしたたか当たり、源次郎は足を運ぼうとするが、よろよろよろけ、後ろから十四、五人、手ごとに首を引っ下げて戻って来た者とかろうじて一所に馳せ戻って元就の実検に供えた。たらたらと流れる血を押しのごい、右筆が首注文をつけている側に差し寄って、「粟屋源次郎三番首と付けられよ」と言ったが、右筆は耳も聞き入れず、七、八番に付けてしまった。粟屋はおおいに腹を立てて、「軍中の首注文は坊主・比丘尼がつけるものではない。よく目を見開いて付けられよ」と言うと、右筆は「さよう、それがしとても千里眼ではない身、何として居ながら先陣の様子を見分けられましょう。ただここへ一番に首を持って来れば一番と付け、二番に来れば二番と付けるだけのことです」と答えた。源次郎はいよいよ腹にすえかね、右筆が持っていた首注文を引ったくり、矢立を取って、右筆の顔をしたたか打ち、仰向けざまに突き倒した。右筆の起き上がったところを見ると、墨と血とが顔にくっ付いて、何んとも珍妙な姿であったので、あたりに居合わせた者どもは、諸手を打ってはやし立てた。元就は中間頭の渡太郎左衛門を呼んで、「わが眼前のことゆえ、前後の次第はしかと分かっておる。争論の暇はない。加勢の来る先に、一刻も早く切り崩されよ」と、命令を伝達させた。』
 (以上 『陰徳太平記』香川 正矩原著  松田治・下房俊一訳 教育社新書板より抜粋)

ここで展開されている光景に、注釈は多く要るまい。全軍全滅するか否かという現場で、手柄の評価で揉めているのである。
 おもしろいことには、その現場に誰が何番目に首を取ったかと記録する専門の担当者が居ることである。記録係の担当者の記録が間違っているからと、その担当者を殴りつけているのである。
 さらに奇妙な光景は、それを見ていた周りにいた兵どもがいっしょになって面白がっているのだ。総大将の元就は、武田元繁の本陣が今にも救援に駆けつけてくるのではないかと、気が気ではないのである。武田元繁の本陣が救援に来れば、毛利軍は壊滅である。首を取られるのである。
 しかし当の兵には、武田元繁の本陣などより、自分の取った首の順番の方が大問題なのだ。周りの兵たちは、顔を殴られた記録担当者が墨と血が顔について珍妙に見えたので、みんなで笑っているのである。

 私たちがイメージしてきた戦国合戦のイメージとはあまりにも違うのだ。嘘だと思われるだろうか。私も戦国時代の真の姿を追い求められてきた藤木久志の著書を読むまでは、戦国時代の合戦の現場などにはとんと関心もなかった。ところが氏の著書を読んでいくと、私たちが教えられてきた戦国時代の本当の姿は、かなりいい加減なステレオタイプ化されたものだったのではないのかという思うようになった。
 このシリーズは、今後数回にわたりお送りする予定である。私たちの戦国時代の合戦に対するステレオタイプ化されたイメージなど吹っ飛ぶであろう。

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