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第13回  曽我兄弟仇討の背後に北条時政の陰謀あり


 曾我兄弟の仇討ちといえば、日本では赤穂四十七士による忠臣蔵、荒木又右衛門の仇討ちと並んで、日本三代仇討ち物語として語り継がれている。
 その曾我兄弟の仇討ち、実は北条時政の陰謀だった。こう推測しているのは歴史学者の石井進氏である。
 曾我兄弟の仇討ちと北条時政との暗い関係を初めて指摘した歴史学者して、石井氏は三浦周行氏の『曾我兄弟と北条時政』を紹介しているが、石井氏もその推測をほぼ採用している。
 ところで、曾我兄弟の仇討ちを知らない方のために、仇討ちまでの経緯を簡単に説明しておこう。

 時は、源頼朝が鎌倉幕府を開く前の1176年。場所は伊豆地方の原野である。伊豆の豪族伊東祐親が近辺の武士たちを招いた巻狩が行われていた。七日間に渡る巻狩も終わり岐路に着く伊東祐親と嫡子河津祐通の二人が突然襲われ、河津祐通は矢にあたり命を失う。
 河津祐通は、伊東氏の領地のうち河津荘をあてがわれていたため河津と名乗っていた。その河津祐通を殺したのは、同じ伊東氏の一族である工藤祐経の差し金であった。
 ここで伊東祐親と工藤祐経との因縁を説明しなければならないが、それには彼らの系図を見てもらったほうがよい。伊東祐親と工藤祐経とは、もともと同じ先祖から別れているが、工藤祐隆の時、因縁の種が蒔かれた。


 工藤祐隆の嫡子祐家が早死したので、祐隆は義理の娘の息子を養子にする形で所領の大部分を譲る。しかし祐継は祐隆が後妻の娘に生ませた実子だった。同時に早死した祐家の息子で祐隆の嫡孫にあたる祐親にも河津荘を譲る。

  祐継も間もなくして死ぬが、その時祐親に嫡子祐経の後見を頼む。はじめは幼い祐経を総領として持ち上げていたが、荘園の大元である本家のある京へ上がらせ、そこで本家、領家に仕えさせることにした。その間に、祐親の方は実質的には伊豆の荘園全部を自分の支配下に置き、実質的な総領的立場にたつ。ここで工藤祐経と伊東祐親の立場が逆転するわけだが、面白くないのは祐経の方だ。祐経と祐親の関係がギクシャクすると、祐親は祐経に嫁がしていた自分の娘を離縁させ、相模の土肥実平の嫡男遠平に再婚させ、祐経の所領すら全面的に否認し、荘園全体の支配権を主張する。

 こうして祐経と祐親との抜き差しならない敵対関係が生まれる。
 かくして祐経は伊東祐親とその嫡子河津祐通を殺す機会をうかがっていたわけだ。
 殺された河津祐通には、二人の幼い男児があり、この二人の男児こそ、曾我兄弟となるわけである。
 河津祐通に先立たれた夫人は、祐親の意思で同族の曾我祐信に再婚していく。こうして二人の男児も母とともに曾我祐信のもとに引き取られて育てられていくのである。
 二人の兄弟は父親の敵討ちを一途に思いながら、天下の覇者となった源頼朝が主催する富士裾野での巻狩で源頼朝の寵臣となっていた工藤祐経を討ち果たし、念願を果たすことになるわけである。

 以上が曾我兄弟の仇討ちに至る因縁である。
 さて、ここからが本題になるわけだが、なぜ曾我兄弟と北条時政がかかわることになったのか、そして時政の真のねらいは何だったのだろうか、石井氏の推論を追っていこう。

総領家の工藤祐経を追い落として伊豆の宇佐美荘全体を支配下にした伊東祐親だが、源平合戦では荘園の本家である平氏に参加したことで没落し、逆にその機に乗じて源氏に参加した工藤祐経が源頼朝の側近として上昇していく。
 伊東祐親が源氏に敵対し没落したことで、その孫にあたる曾我兄弟は、源頼朝直属の御家人にはなれない立場となる。その曾我兄弟を庇護していたのが北条時政だった。
 北条時政の妻がどうやら伊東祐親の実の娘かまたは義理の娘だったのではないか、そういう伊東氏と北条氏との古くからの婚姻関係によって、伊東祐親の孫にあたる曾我兄弟も北条時政に庇護されたようである。特に兄の一万の方は、早くから時政の館に出入りしていたようで、弟の箱王が出家するのを嫌がって寺を抜け出してきたのを、北条時政の館に連れて行き、そこで時政を烏帽子親として元服させている。 曾我兄弟は実質的には北条時政の従者だったと指摘。
 親の敵工藤祐経を付けねらう曾我兄弟であったが、なかなか念願を果たすチャンスがなかった。そんな折1192年征夷大将軍に任じられた源頼朝は、翌1193年数回に渡って大規模な巻狩を行う。最後の巻狩が5月富士の裾野で開かれることになり、兄弟はその巻狩をターゲットに選ぶ。曾我郷で母との最後の別れをして、兄弟は富士の巻狩の現場へと急ぐ。
 巻狩も終わりに近い5月28日の夜、兄弟はついに工藤祐経の仮屋を見つけ出し、松明を手にし、祐経を討ち取る。兄は剛勇のほまれ高い仁田忠常にその場討ち取られたが、弟の方は、さらに頼朝の仮屋目指して突進したが、あいにく生け捕りにされてしまう。

 翌朝弟の方は、頼朝の面前に引き出され理由を問いただされた。その後祐経の遺児犬坊丸に引き渡され、首を切られたという。享年20歳。
 さて、曾我兄弟が親の敵祐経を討ち取ったあと、さらに頼朝めがけて討ち入った理由はなぜなのか、という疑問に対して、ずばり頼朝も討ち取ることにあったと指摘。
 そして兄弟にそのように仕向けた張本人こそ、実は北条時政だったと指摘。
 北条時政は、義経、範頼など頼朝の親族たちが次々に失脚する中、『極度の沈黙』を守りながら、一方では『ある積極的手段』を講じる。それが頼朝暗殺計画である。先手必勝である。
 時政が曾我兄弟を推挙し御家人に加えようと思えばできたものを敢えてせず、時政の従者として抱えこんだのは、純粋無垢な兄弟をたぶらかし、頼朝とその寵愛を受けて権力の座にいる工藤祐経とに対する憎悪の念をたきつけていたのだろうと指摘。
 また警備の厳しい屋形を急襲できたのも、この宿舎の設営が駿河の守護であった北条時政の手によって行われていることを指摘し、敵討ちの成功もこの事実と無関係であるはずがないと喝破。
 さらに、後に北条氏の得宗体制が確立したときに、曾我氏の子孫が得宗家に仕える身内人となっていることも、北条氏と曾我兄弟およびその養父であった曾我氏との関係を物語ると指摘。得宗家の身内人とは、実質的な評定衆であり、権力が集中した人々である。<br>
 これなど徳川家康の天下となったあかつきに、明智光秀の子孫が優遇されたことと同じようなものと言えよう。
 北条時政、したたかな政治家だったのであろう

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