Samurai World>歴史再発見




第15回  地域性と共同体のルーツは中世の歴史にあり




 中国地方の史跡をあちこち回り取材していると、その土地の人と話をする機会が多い。
そういう個人的な体験を通じて感じるのは、現在の私たちの地域性、共同体の連帯性というような根っこの部分は、中世の時代にあるということだ。
 
  近代日本の原型がいつ作られたかについては、さまざまな議論があろうが、中世の歴史は、今でも確かに感じる。江戸幕府250年間の中で、日本という形の中身が作られたことも想像できようが、私は個人的にはもっと中世の歴史が落としている影に目を振り向けてもいいのではないかと思っている。そしてその思いは、実際に地方を訪ね、そこに暮らす人々との会話の中でますます強くなる。
 
  現在の広島県西部にあたる安芸国が浅野氏、東部にあたる備後の一部が水野氏、安部氏の領土として発展して現在に至っている。 広島市というところは、江戸時代は芸州浅野藩の国であった。
  しかし現在、この地で浅野氏の足跡を語ることは、ほとんど見られないし、その史跡すら人々の記憶の中にははっきり意識されていないようなのである。
  広島県西部で浅野氏の歴史が香るのは、三次の地だけである。  
  三次というところは、中世は国人領主三吉氏の城下町として基礎が作られた街である。安芸国に福島正則に代わって浅野氏が入封してきたとき、初代藩主浅野長晟の次男で徳川家康の孫にあたる光晟に本家を継がせ、嫡男で庶子にあたる長治には三次を分地させ、三次浅野藩5万石が成立する。以後約70年間ほどの間、浅野氏の城下町として発展する。

  しかし現在の三次の人々が浅野氏を語るとき、それは初代藩主浅野長治に向けてのことと言っても過言ではないだろう。浅野長治は、三次の地を愛し、その発展に尽力したからである。江戸藩邸で死亡したにもかかわらず、遺言によりその遺体は故郷三次に帰ったのである。
   浅野氏の歴史を感じる三次の地でさえ、実際には浅野長治という個人的な主君への追慕とその娘にして赤穂義士であまりにも有名になった『阿久利姫』のおかげであろう。
 
  三原という街も、江戸時代を通じて三原浅野氏が支配していたが、三原の街は、小早川隆景の作った街という意識が強い。ここでも浅野氏の影は薄い。
 
  広島の人でも、浅野氏の墓所を知る人は少なかろう。ましてや普段は立ち入ることはできない。 つまり一般公開はされていないのである。

  こういうところにも、江戸時代250間の単なる外部者としての支配者とその土地の人々とのズレというものを感じることができる。
 
  毛利輝元が立ち退いたあとの福島正則、浅野長晟は、安芸国の人々にとっては、よそ者でしかなかったのかも知れない。  
  すっかり様変わりした広島の街を見下ろしている広島城は毛利輝元が造った城であり、そこの主人は今でも毛利輝元なのである。住居していた年数の期間ではなく、人々の記憶に刷り込まれた歴史が、そうさせるのである。ここに歴史の面白さがある。
  

  中国山間部へ踏み込んでいくと、このような中世の足跡はますます強くなる。  
  吉田町の人々にとって、領主様はいまでも毛利元就様だ。
  島根県羽須美町に行けば、ここの領主様は、毛利元就に滅ぼされた高橋氏である。だから元就が憎いはずである。

広島県大朝町の人々にとっては、領主様は吉川氏である。大朝町の場合は複雑だ。元就に殺された吉川氏正統と、その跡をついだ吉川元春が影を落としている。
 
  吉田町の隣町甲田町は、宍戸氏一色である。ここには毛利元就の影など微塵も感じられない。町の人々も宍戸さまさまである。郷土資料館には、宍戸氏関係のものが多い。
  このたび、宍戸氏の居城五龍城を本格的に公園として整備し、いつまでも宍戸氏の思い出を語るつもりでいるほどである。  
  甲田町を江の川沿いに通過して三次に入れば、浅野長治とその娘『阿久利姫』が人々の口に登場する。赤穂義士関係の史跡がある鳳源寺は、三次浅野氏の菩提寺でもあるが、かつては三吉氏の居館跡と推定されているところである。

江の川に注ぎ込む馬洗川をたどり、吉舎町に入ると、和智氏の町である。ところどころ風情のある歴史が漂っている街である。この街の歴史は、中世和智氏からいきなり明治へと飛んでいるようで、江戸時代の歴史は一体全体どこへいったのだろうか。資料館は当然和智氏である。入り口を入ると正面に大きな和智氏実の肖像が出迎えてくれるという手の込みようである。町の自慢は和智氏とその文化財、それに山芋である。
 
  石見の山間部に足を運んでいくと、元就に滅ぼされていった領主たちも多いが、そういう史跡の前にたたずんでいると、地元の人が寄ってきては昔の殿様の話をしてくださる。
 
  毛利氏が中国地方をほぼ手中にしたとはいえ、元就が殿様として語られるのは、以外や地元の吉田町くらいである。

元就に滅ぼされた領主といえども、地元の人々には今でも語り継がれているのである。  福屋隆兼が元就に攻められた本拠本明城は、江津市の有福温泉の街外れにあるが、いまでも山頂にある神社に大晦日から元旦にかけて登山するのだそうだ。そしてそこがかつて何だったのかを古老たちは知っていた。古老たちにとって福屋隆兼は今でも『昔の殿様』なのだ。
 

  日本海を西に下って、三隅町、益田市といくと、もう俄然益田氏が登場してくる。この地方の人々にとっては、江戸浜田藩のことより、中世益田氏、その支流三隅氏が自慢なのだ。
  益田市は、中世のまま時間がストップしたような歴史の町であることは確かである。
  益田市は、益田氏に始まり、益田氏で終わったと言っても過言ではないだろう。その間約400年間。
  益田の最後の領主となった益田元祥が、徳川家康から領地(当時10万石近くの知行地を有していた)安堵の誘いを受けたが、それを無碍に断って、貧乏大名と成り果てた毛利輝元に従って、5000名余りの家臣とその家族を整理して、わずか300名足らずの家臣とその家族を引き連れて長州へ移動していくのは、1600年の寒い冬の日であったとか。このとき、益田は、静かに長い眠りに付くのである。
 
  益田を訪れると、250年間の江戸時代の空白を経て、中世益田氏の街が生きつづけていることを肌で感じるのである。私はそんな益田が気に入っている。


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