Samurai World>歴史再発見




第16回  女も地頭だった、領主だった



写真は、良海尼が受け継いだかつての領地永安本郷(島根県弥栄村)
永安氏の居城跡からの眺め



  武士たちが主人公だった長い封建時代に対する私たち現代人のイメージの一つが、鎧に身を包んだ勇ましい武将たちのイメージではないでしょうか。
 
 そういう長い封建時代の中で、男性にも負けず劣らず活躍した女性として、よく北条政子や日野富子が挙げられます。しかしこれなど例外的な存在と考えられ、そういう視点から常にドラマなどに登場するようです。
 
  でもまだまだ日本の長い封建時代を通じて、女性は私たち現代人の偏見にみちた常識を超えた存在として、各地に生きていたような気がしています。
 
  今回は、領主としてときの幕府から認められた一人の女性を紹介したいと思います。   その女性の名は、夜叉のち出家して良海尼と称した女性です。
 
  良海は、現在の西石見一帯を領有していた大豪族益田氏の支族三隅氏の娘として誕生しています。ときは13世紀半ばの頃です。

三隅氏は、益田氏第4代益田兼高の次男兼信が現在の島根県三隅町あたりを分地されたことにより誕生した一族で、南北朝の騒乱のときは、南朝方の陣営として大活躍しています。
 
  初代三隅兼信の次男兼祐が現在の島根県弥栄村にあたる永安郷をさらに分地され、ここに永安氏が誕生します。永安兼祐には、嫡男兼栄がいましたが、兼栄には所領を譲らず、兼栄の娘で兼祐の孫にあたる夜叉に譲ると妻に遺言します。妻の良円はその遺言どおりに兼祐の所領を孫の夜叉に譲ります。
  ところで兼祐が嫡男の兼栄に所領を譲らなかったのは、兼栄の親不孝によるものとされていますが、それではこの親不孝とは一体全体何だったのでしょうか。
  諸説あるようですが、その中で最も強力で通説となっているのが、元寇に対する防衛職務を父兼祐とともに遂行しなかったことで、父の怒りをかったとというものです。

ときは、今年のNHK大河ドラマで放映されている北条時宗の時代です。執権時宗は、九州や長門、石見地方の豪族や御家人に対して、防衛体制を強化するべく、防塁を築くよう命令します。
  三隅氏や本家の益田氏も日本海の海岸沿いに防塁や砦を築きます。  
  兼祐の嫡男兼栄は、このような幕府への職務を父兼祐のように熱心に遂行しなかったので、父から見放され、領主として家督を譲られなかったというわけです。
 
  兼祐の妻良円は、遺言どおり1298年に領地を良海尼(夫で石見吉川氏の祖吉川経茂が亡くなっていたため尼となっていた)に譲るのです。<br>
  そしてこの件に対して、1308年幕府は正式に永安別府地頭職を良海尼に安堵することを認めます。  
  ところが祖母良円尼が亡くなるとすぐさま、良海尼の弟で兼栄の嫡男である兼員が、横槍を入れてきます。本来なら嫡男の自分に与えられる所領だったのだから、返してくれというわけです。兼員は幕府に訴えます。これに対しては、良海尼の方も幕府に訴え、両者争います。結果、永安氏(兼員)と良海尼の嫁ぎ先である吉川氏との折半領有になります。
  

良海尼の夫は、吉川氏の一族の吉川経茂です。良海尼と吉川経茂との間には、三人の息子がいたようで、嫡男が経貞、次男が経任、三男が経兼です。
  良海尼は、のちに経貞に譲った所領を、これまた親不孝として廃嫡し、三男経兼に譲ります。これが石見吉川氏と呼ばれるひとつの独立した勢力が確立したときと言われています。

  この三男経兼の嫡男が吉川本家の養子となり第8代吉川経見となる人物です。また次男の経任が、現在の島根県温泉津町殿村あたりを領して、その第10代当主が、歴史に名を刻むことになる吉川経家(鳥取城で自害)になるわけです。
 
  鎌倉時代には、まだまだ女性の地位は守られていたようで、女性も男性と同じように財産を分与されていたようです。所領を幕府に公認され、しかも家督についても自分の意志を通すことができた女性が、石見の地方にも存在していました。しかも今から700年も昔に。

inserted by FC2 system