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第19回  甲冑姿で戦ったの男だけではなかった

 日本の歴史を通して、女性が鎧をつけて戦っていたことなど考えたこともありませんでした。女性といえば、せいぜい長刀をもって奮闘したことぐらいしかイメージがありませんでした。
 しかし実際に甲冑に身を包んで男性のサムライに劣らず活躍した女性たちがいたようです。そんな女サムライたちを今回は紹介したいと思います。
  まずは、木曾義仲の家臣にして妻でもあった巴です。
  木曾義仲は皆さんもご存じのように、源頼朝とは従兄弟同士の関係にあたります。頼朝の父源義朝と木曾義仲の父源義賢とは兄弟ですが、保元の乱で源義賢は敗れて義仲は木曾に落ち延び、その地の武将中原兼遠に匿われ養育されたので、木曾義仲と名乗るようになるわけです。
  巴とは、その中原兼遠の娘で、義仲とは兄弟のようにして育てられます。二人はやがて結ばれます。
  1180年に平家追討の綸旨が発布されたことに呼応した木曾義仲は、源頼朝に先んじて平家討伐の兵をあげます。その討伐軍に巴も騎馬武者姿で義仲と並んで出陣していきます。

1183年5月、義仲軍は倶利伽羅峠で平家の10万の大軍を迎え撃ちます。このとき、巴は一千騎を与えられ他の隊と呼応し、夜襲をかけ七万の平家軍を撃破したと言います。
平家軍を打ち破った義仲軍は京へ入り、征夷大将軍として迎えられますが、やがて後白河法皇から見捨てられた義仲は、逆に源頼朝に追討される立場になります。
  巴も最後まで義仲とともに戦ってともに討ち死にするつもりだったのを、『故郷に帰り菩提を弔い、後世に義仲のことを語り継いでくれるように』と義仲に諌められ、涙ながらに戦列を離れていったといいます。義仲の首は京の都を引き回され、六条河原にさらされます。

  次に紹介する女サムライは、瀬戸内海は大三島という島に伝わる鶴姫の話です。この大三島に大山祇神社という水軍の守り神として拝められてきた神社があります。これだけでは、日本中に見うけられる普通の神社に思えますが、実はこの神社は、昔から武将たちが実戦で使用してきた鎧や刀剣など国宝・重文クラスのものがゆうに百を超えて寄贈されてきた神社なのです。例えば源義経が壇ノ浦で着用していた鎧も奉納されています。

このような国宝クラスの鎧のなかに、ひとつだけ異様な形の鎧があります。胸の部分が異様に張り出していて、腰の部分が狭く絞り込んである胴丸があります。実はこの鎧、日本で現存するただ一つの女性用の鎧です。
現在国の重要文化残に指定されています。
  この鎧に身をつつんだ女性こそ、鶴姫です。鶴姫は大山祇神社祝職家に生まれた女の子ですが、体が大きく幼いときから兵術を学び、兵法にも精通していたといいます。
 当時周防の大内氏の勢力がこの島にも伸びてきて、大山祇神社祝職家も防衛のため島内に城を築き、同じ瀬戸内水軍である伊予の河野氏と協力しながら、大内氏と交戦します。1541年、さらに1543年とたびたび勢力を拡大しようと攻めかかってくる大内軍に、鶴姫の父や兄たちが戦死していくなかで、最後まで交戦したと言い伝えられています。その猛勇振りに味方の軍は士気が上がり、さすがの大内軍もついに周防へ引き上げていったといいます。その後二度と大三島に上陸してくることはなく、大内義隆は逆に刀剣と馬を寄贈して詫びたといいます。

 最後に紹介するのは、市川経好の妻です。
  市川経好は、もともとは安芸の有力国人吉川国経の三男経世の嫡子です。吉川国経の娘が毛利元就の正室に嫁いでおり、毛利氏とは因縁の深い関係にあります。経好が市川氏を名乗ったのは、元就が国経の嫡孫で吉川家の当主吉川興経を計略を使い吉川家乗っ取りを謀った際に、それに協力したが結果的に安芸の市川村に蟄居させられたので、市川氏と名乗るようになったわけです。
  その市川経好が防長制圧を完了した元就に、大内氏の居城だった高嶺山城の城代に、そして防長の責任者としての山口奉行に任命されます。
  1569年、大友宗麟の筑前立花城攻めに出陣中、大友宗麟の画策によって毛利氏の背後を突くために、宗麟の支援を受けた大内輝弘が山口へと進軍してきます。山口奉行で防長の政務の責任者となっていた市川経好以下家臣団は、九州へ出陣しており、高嶺山城を預かるのは、市川経好の妻ということになったわけです。そこで経好の妻は女中らを従えて自らも甲冑を付け、城を守備し、大内輝弘の軍と交戦しています。結局城を守りぬき、その功績に対して1577年毛利輝元より感状が与えられています。

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