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第20回  折敷畑合戦はなかった






 毛利元就が戦国大名に飛躍していく転機になった『厳島合戦』に関連して必ず取り上げられている『折敷畑合戦』は実際には存在しなかった。
  こう論破しているのは、現在広島県立女子大学に勤務しておられる秋山伸隆氏である。その要点をかいつまんで秋山伸隆氏の『天文二十三年安芸折敷畑合戦と感状』という論文から紹介しよう。
 
  1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。ほとんどの毛利元就に関する研究所や雑誌で紹介されている、1554年9月15日の折敷畑合戦は実際には行われていないことになる。  それでは、陶軍を率いて毛利軍と戦い戦死した宮川甲斐守の戦死も嘘なのか。実は陶軍と毛利軍との合戦はあった。

  それはこれまで言われてきた折敷畑合戦ではなく、1554年6月5日に行われた明石口付近での両軍の衝突である。この明石口合戦こそ、実は折敷畑合戦のことであると秋山氏は論証。 この合戦において宮川甲斐守が戦死したことは、毛利氏の家臣に与えられた感状や陶晴賢が発給した感状によっても裏づけられる。また元就の書状によってもこの折敷畑付近で両軍の衝突があったことも明らか。  

  明石口合戦に関する元就が発給した感状には、明石という言葉は使われていても、折敷畑という言葉がどこにも使用されていないこと、それにも関らず、元就などによって折敷畑での両軍合戦のことなどが語られていることによって、あたかも明石口合戦とは別に『折敷畑合戦』があったかのように、後の家臣たちの間では錯覚されていった。その史実の誤認によつて、毛利元就の史伝の根拠となっている『吉田物語』が1702年に毛利氏家臣の杉岡権之介就房によって著されたとき、ここに折敷畑合戦がはっきりと1554年9月15日とされ、明石口合戦を1555年5月13日とする通説が確立されるに至る。  

  以上が秋山氏の論説の要旨である。詳しくは秋山伸隆氏著『戦国大名毛利氏の研究』(吉川弘文館)に論文が収められているので一読されたし。  
  現在、折敷畑合戦場跡は、折敷畑山山頂に古戦場碑が建立されているが、この山頂までの登山は急斜面で歩行も困難なくらいである。したがって両軍の衝突は、明石口とあることから、現在国道が走っている旧津和野街道を中心としたあたりとするのが自然だろう。宮川甲斐守腹切岩は、この旧津和野街道沿いにある。
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