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第21回  鉄砲と毛利元就


写真は元就が戦いに鉄砲を始めて使用した須々万沼城跡(山口県徳山市)。戦国大名の中で、いちはやく鉄砲を戦に導入したのは、他ならぬ毛利元就である。現在は病院、寺院敷地となっている。当時の面影はどこにもない。

 
 1543年一隻の外国船が種子島に漂着した。これが日本に鉄砲が伝来したとされる事件であった。
 このとき島の領主種子島時尭(ときたか)がポルトガル人から2挺の鉄砲を買い求めた。種子島時尭は、これを精巧に複製させ、このうちの一挺を島津義久にに献上し、さらに義久から時の将軍足利義晴に献上された。
 種子島時尭の買い求めた鉄砲のもう一挺は、紀伊にもたらされ、堺で複製される。  かくして鉄砲は種子島に伝来して一〇年前後のうちには、堺、伊豆、紀伊、摂津などに伝搬していく。

そして1575年かの有名な長篠合戦が行われることになる。 毛利元就は、厳島合戦で陶晴賢を破ると、中国地方の制圧へと大きく踏み出すことになるが、厳島合戦後すぐに陶の領地周防長門制圧に進軍する。

 周防攻略のなかでもっともてこずった攻防戦が現在の山口県徳山市にあった須々万沼城であった。この城は、平地に築城された平城であったが、周囲が低湿地で人馬が容易に近づけない。それでがなかなか落ちなかった。
 1556年4月から翌年の3月まで攻防戦にかかっている。  そこで元就が練った作戦が、沼を渡るた めに薦(こも)を用意し、これを使用して沼に囲まれた城を包囲しながら、さらに鉄砲で射撃した。これによって城は落城し、城主山崎伊豆守父子は自刃した。

ところで、毛利元就はこの鉄砲をどこで調達したのか。  大内氏や中国貿易に関っていた瀬戸内水軍との密接な関係をもっていた毛利氏が、どこからか最新の鉄砲の情報をもっていたことは推測できるが、1556年といえば鉄砲が伝来して、まだ13年しか経過してない時期だけに、そうそう容易に大量の鉄砲など調達するのも難しいだろうと推測される。
 
実はこのとき使用した鉄砲は、先の厳島合戦で陶軍が使用した鉄砲である。それを毛利軍が分捕ったのである。その数約7挺。  1575年の長篠合戦に先立つこと20年近く前のことである。確かに鉄砲隊の歩兵隊を軍隊の主力として確立していく織田信長ほどの斬新さはないが、新種の武器を間髪入れず採用する先進的精神性は、さすがと言えよう。しかしこの鉄砲が実は厳島合戦で陶晴賢が用いたものであれば、陶晴賢の方こそなかなか油断のならない武将だったということなのかもしれない。
 元就は、その後の戦いで鉄砲を積極的に導入した戦を展開している。
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