Samurai World>歴史再発見




第22回  百姓も武装していた


  百姓や農民に対する現代の私たちのイメージはどこからつくられたのでしょうか。戦国時代のことを調べるうちに私にはますますこのような思いが強くなります。
  中世末期の農民たちの世界は『自立』が原則で自分たちの村は自分たちで守るという意識が徹底していることは『百姓たちの城』のところでも触れました。百姓たちも自分たちの城や砦をもっていたことは、同時に彼らもいざという時には武装していたということを意味しています。

  ところで帯刀といのうは、刀と脇差の二本を腰に差すことをいい、それはサムライ身分の証しとプライドでもありますが、帯刀は村の有力者たちもしていたようです。ましてや脇差一本を差すことなど村の普通の人々たちはほとんどしていたということです。童名から成人名へと成人式をすませると、脇差を村の若者たちが差すことを祝う行事も広く行われていたようです。

 さらに脇差が持てないもっと貧困な百姓たちは、腰に鎌などを差す、『かまさし』という身分もあったようです。<br>  江戸時代には、庶民は刀など差していなかったはずだ、ということもないようです。確かに時代劇のなかで、刀をさしている町民や百姓など登場しませんが、実際には江戸時代でさえ、刀に関する規制は、刀の長さ、つばの形などに過ぎないものです。一尺八寸(約55cm)以内でしたら、お構い無しだったようです。そういえば、ドラマの中でも確かに幕末の清水次郎長親分たちは脇差をさしているようですね。
  明智光秀が山崎合戦で秀吉に敗れて、現在の京都の山科あたりまで落ち延びてきたとき、地元の農民たちの手にかかって最後を遂げたことは有名な話ですが、ああいうことは当時の常識だったということです。

江戸時代などの時代劇ドラマの影響のせいか、江戸時代には武士身分以外は、刀を差していないはずだ、という根強い思い込みがありますので、ここで江戸時代の例をひとつ挙げておきたいと思います。
  姫路藩の船手組の場合です。船手組というのは、中世水軍として活躍していた人々を、江戸時代各藩が、藩主の参勤交代、瀬戸内海沿岸の諸藩では朝鮮通信使の護衛、現在の海上保安庁などの役割を担う、藩の新たな水軍として取り込んでいった武士団のことです。

  姫路藩の場合は、兵船約60隻ほど抱えていたようで、構成員は約250名前後といったところのようです。そのうち、水夫が約100人に対して、抱水夫と呼ばれている武士階級に属さない人々が約35人ほどいます。この人たちは、大船頭や小船頭と呼ばれる仕官クラスの武将の付き人として配置されます。この人たちは、武士ではないから、苗字はない。だから当然二本差帯刀は許されていない。ところが、朝鮮通信使の護衛など大規模な任務が発生した場合、周辺の漁民まで駆り出してスタッフを用意しなければならない。その場合、抱水夫と呼ばれていた人々には、臨時に士分を与えて、二本差帯刀を許可する。これは、漁民と藩の抱える人間との間に、一線を画するという意味合いがあったのだろうと思われます。明確な上下関係を作らないと、指揮系統が機能しないからです。

  この例を見ても分かるように、江戸時代でも、刀を差す条件は、武士とか百姓、町民という区別ではないのです。苗字を持たない身分でも刀は差せるのです。  武士とそれ以外の身分の区別のシンボルは、二本差帯刀ができるか否かという点に尽きます。

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