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第23回  百姓たちの城


  城は戦国武将や江戸時代の大名たちの専売特許だという思いこみがあります。私の取材している戦国時代以前の山城にしても、ほとんどの人々にとっては『城』ではないようなのです。城というのは、壮大な天守閣がそびえている−そういうイメージをほとんどの日本人が持っているわけです。戦国時代に興味を持っている歴史マニアの間でも、城といえば天守閣という固定したイメージがあるわけです。多くの城をテーマにしたホームページを見てもこの事実はわかります。天守閣イコール城、これは多くの日本人の脳回路にインプットされた情報と言えるかもしれません。
  かくいう私も長い間そう思っていました。しかし実際にはそうではないことがわかってきました。
写真は広島県千代田に残っている四十九城跡です。
 この城は、領主の砦ではなく、領民たちが避難するための砦と考えられています。
 領民たちは、戦いのときは、山へあがり、緊急に備えたようです。
 
歴史学者の長年の努力によつて、中世の歴史が明らかになるにつれて、封建領主と農民や商人たちのダイナミックな現実を知ることができるようになりました。

 中世末期の戦国時代になると、至る所で戦いが行われるわけです。戦があると、その周辺の関係のある村々も当然戦に巻き込まれます。戦に巻き込まれるということは、村々から兵士を出すというこだけではなく、女子供の略奪と人身売買、田畑の作物や農具や家財道具などの財産の略奪や放火焼失ということも意味していたわけです。

これでは農民はたまったものではありません。そこで農民はどうしたか。
 ひとつは、いざいうときには領民を守るという慣習化した 封建領主との契約関係によって領主の山城へ避難するわけです。避難したのは別に農民だけではなく、領主が開発した市場経済の担い手であった商人や職人たちも一斉に山城に避難したと思われます。戦国末期の山城が郭郡を多数配置していって次第に城域を拡大していったのは、何も武士たちだけのためのものではなかったのではないか考えています。
 もうひつは、農民たちだけの自衛策です。これは近くに領主の城がないような場合。それと中世をとおして言えることですが、領主といえども何がなんでも自分たちを守ってくれる存在
ではなかったわけです。『自力救済』−これが中世の常識です。村によっては、戦の推移を見定めながら、敵の領主へと寝返るこもあったわけです。負ける領主についても何の得にもならないのは、現代も同じです。
 この自衛策のために、農民たちは何をしたか。

自前の城を作るわけです。歴史学者の間では『村の城』と呼ばれているものです。
 ここで理解しておく必要があることは、『城』の定義です。そもそも城とは何かというです。
 天守閣や石垣だけが城ではないということです。むしろ近代城郭に特徴的な天守閣は単なる飾り物です。そのことを織田信長や私の地元広島城を築城した毛利輝元などは十分承知していたと思います。
 『村の城』といっても、多種多様だったようです。単に村の裏山に上がって緊急の山小屋のようなものを建てて避難したものから、領主の山城のように山の尾根の先端を利用して空堀で要塞化したものまであるようです。
 このうち現在確認できる可能性のあるのは、土塁や空堀を使用した要塞的な『村の城』でしょう。  
 歴史ドラマなどのせいで、私たちの頭にはか弱い農民と威張りくさった封建領主という図式が刷り込まれていて、なかなか中世日本の現実を受け入れることが難しいかもしれません。 しかし今『村の城』は私たちに戦国時代に自力でたくましく生きていた人々がいたことを教えてくれます。


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