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第26回  瀬戸内海は、シーボルトによって発見された



瀬戸内海は、シーボルトによって発見されたなどと書けば、馬鹿なことを言うなと叱られそうですが、実は、瀬戸内海という言葉や観念は、明治初頭まで日本人は知らなかったようです。瀬戸内海という観念や言葉を持たなかったということは、『瀬戸内海』という現在の私たちにとってはごく自然なイメージを、近世初頭に至るまで日本人は、持たなかったということです。

今回は、西田正憲氏の『瀬戸内海の発見−意味の風景から視覚の風景へ』(中央新書)を取り上げて、このテーマを皆さんに紹介したいと思います。
 私も正直この本を読んでみるまで、瀬戸内海というイメージを明治初頭に至るまで日本人が持っていなかったことは、新しい発見でした。このテーマは、今後の瀬戸内海周囲の自治体がそれぞれの街作りのベースとして共有しておくべき考え方のような気がします。
 西田氏の著書によれば、フロイスなど戦国末期から日本を訪れた西洋人の日本の風景描写を丹念に挙げながらも、現在の日本人のもっている瀬戸内海イコール多島海The Inland Seaという観念は、幕末から明治時代にかけて日本を訪れ、瀬戸内海を汽船で旅行した西洋人が作り出した概念であることを指摘されています。それまで、日本人は、古来より明石や須磨の海岸など、または厳島や赤間関(現在の下関)などスポットとして歌などに取り上げていますが、現在の日本人が持っている『瀬戸内海』という概念としては、幕末までついに持つことはなかったといいます。
 つまり、『瀬戸内海』というものを全体としてひとつのイメージとして、つまり『瀬戸内海』の風景を持つことはなかったと言います。
 ところで、瀬戸内海という実在は、日本列島が誕生したときからあるわけですが、それが人間の観念として受容されたとき、初めて『瀬戸内海』が誕生することになります。実在と観念の関係というのは、ニュートンのリンゴと万有引力の法則を取り上げればわかりやすいと思います。
 つまり、この宇宙が誕生したときから引力という実在は存在したわけですが、それをニュートンが合理的に説明し、概念化したとき、初めて引力というものが人間にとって存在するようになったわけです。このように実在と観念が私たちの頭の中で明確な形として受容されたとき、あらゆるものが誕生するわけです。
 瀬戸内海についても、日本列島が誕生したときから、海と島々やそこに暮らす人々の生活は営々と営まれていたわけですが、それを一つの明確なイメージとして捉えていたわけではないということです。
 瀬戸の花嫁、瀬戸内海の段々畑、日本のエーゲ海といったようなイメージとして、日本人が『瀬戸内海』を持っていたのではなく、江戸時代を通じて、西洋人が瀬戸内海を行き来する時に、次第に瀬戸内海をひとつの風景として描写することによって、初めて私たち日本人にも『瀬戸内海』という風景が誕生していったことを指摘されています。

瀬戸内海を航行した外国の人々は、古来より多くの人々がいたわけですが、その中でも朝鮮通信使による風景描写は、いずれも故国の風景をダブらせたものであるようです。
現在の広島県福山の鞆の浦を好んで描写したのも、漢詩の中での風景描写が強い影響を与えているようです。中国人や朝鮮半島の人々は、この地の風景描写を好んだようです。
 一方西洋人も安土桃山時代から瀬戸内海を航行し始めるわけですが、はじめのころは、感動的な風景描写は見られず、淡々とした記述であるようです。
 それは、西村氏によれば、当のヨーロッパ人の風景や自然を見る目が未だ近代ほどには熟成していなかったものであると指摘されています。ヨーロッパが産業革命を経て、新しい時代に突入していくのは、19世紀半ば頃からと考えられるからです。それに伴って、新しい観念や価値観も誕生してくるわけです。
 江戸時代長崎に居住していたオランダ人商人たちは、毎年のように江戸の将軍のところへ挨拶に行くわけで、その度に瀬戸内海を航行します。彼らの目に見えた瀬戸内海の風景も時代の推移とともに次第に変化していくことが述べられていて、風景というものもそれを眺める人間の観念によって変化していくことがわかります。

 そんな中で、西村氏によれば、現代のような『瀬戸内海』の美しい風景を感動的に描写し始めた最初の西洋人として、氏はシーボルトを挙げています。
 シーボルトは、ドイツ人で医学、植物学、地理学などを身に付けた博学の学者で、オランダの東インド会社に雇われ、日本の総合的な調査目的のために1823年に長崎に赴任した人です。その彼も、江戸への参勤の途上瀬戸内海を随行し、しかも所々に上陸し、植物、地質などの現地調査を行っています。
 そのシーボルトの目に、はっきりと瀬戸内海が『The Inland Sea』として描写され、ひとつの明確な形をとるようになったといいます。それまでのばらばらな瀬戸、灘や島々の寄せ集めではなく、『瀬戸内海』という固有の地形と観念、風景を与えられていくようになったと言います。
 西洋人の瀬戸内海描写が感動的な風景描写になっていくのは、これ以降のようです。日本のエーゲ海、美しき多島海の風景描写が生まれていくことになります。
それに影響される形で、私たち日本人も瀬戸内海というひとつの固有のイメージとして受容していったと考えられるようです。

現在の私たちにとって、瀬戸の花嫁、みかんの段々畑、小船の行き交う風景、港の沖合で漁をしている人々の風景など、あたりまえのイメージが、やっと明治初頭あたりから定着してきたイメージであることを改めて知らされるわけです。
明治の頃瀬戸内海を旅行した西洋人の目には、こうした何気ない風景が、この世のパラダイス、楽園とまで描写されたようです。しかし、その美しい瀬戸内海の風景も残念ながら失われていったように思えます。

 小早川隆景の築いた三原城は、さぞかし美しく瀬戸内海に映え、西洋人の目を楽しませていたことが描写されているようですが、瀬戸内海に溶け込んでいたその城も今はなく、無残な城跡だけが、訪れる人を印象付けます。私たち日本人が失ってしまったものは、計り知れないものがあるようです。風景の与える心の安らぎ、生活の充足感、地域の連帯感など影響は大きいものがあるからです。つまるところ、人間とは、観念的動物だということです。



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