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第27回  陶晴賢の墓は陶晴賢の墓ではなかった???

 
 毛利元就の特集や書籍関係を拝見しますと、毛利元就を戦国大名に押し上げた厳島合戦は必ず取り上げてあり、それに付随する形で、厳島合戦で敗れ、主君大内義隆殺しという逆臣の汚名を着せられてしまった陶晴賢の墓もよく引用されています。ご覧になった方が多いのでいまさら説明の必要もないかと思います。
 陶晴賢の墓と呼ばれているものは、現在の広島県廿日市市の洞雲寺という古刹にあります。この洞雲寺という寺は、厳島神社職であった藤原氏や毛利氏関係の古文書を多数残し、境内には、藤原氏、毛利元就の四男元清夫妻の墓、桂元澄夫妻の墓もあります。
 この洞雲寺の墓には、なかなかおかしなところが2,3あって、ぜひ皆さんに紹介しようと思っていたわけですが、今回は、その中でも、陶晴賢の墓のなぞについて、ご紹介したいと思います。



 すばり、陶晴賢の墓が、陶の墓ではないのではないかと疑問を提出されている方は、地元山陽学園の理事長をされていた石田米孝氏で、地元の郷土史に精通された方です。
 石田氏はその著『廿日市の歴史探訪』という本の中で、この問題を鋭く、わかりやすく取り上げられていますので、ご紹介し、いっしょに考えてみたいと思います。
 そもそも現在、陶晴賢の墓と称されているものが、陶の墓として認知されたのは、江戸時代安芸国を領有していた浅野藩の時編纂された歴史書『芸藩通志』によるものであることを指摘されています。
 ところが、氏によれば、それ以前の洞雲寺の墓についての伝承は、1618年時点の佐方村下調帖という記録によれば、
 往古ヨリ有来墓所
  1. 厳島下野守教親墓
  2. 厳島上野介興藤墓
  3. 毛利治部大輔元清公墓
    毛利元就公四男、長州長府御領主元祖 同御内室墓
  4. 大江元澄墓   長州家臣桂氏ノ元祖
とあるだけで、陶晴賢の墓についてはまったく記載されていないとあります。つまり、1618年の時点では、洞雲寺には、陶晴賢の墓は伝承されていなかったし、存在も確認されていなかったということになります。
 ところが、『芸藩通志』で、陶晴賢の墓が突然登場するようです。


 ところで、この『芸藩通志』というのは、浅野藩が1819年から1820年にかけて、藩内の記録、古文書などを提出させていっせいに編纂事業に乗り出した結果、誕生した広島藩の江戸時代の権威ある歴史書とされています。1825年に全159巻159冊として完成しています。広島城下に編集局を設け、頼杏坪のほか、加藤株鷹、頼舜壽、黒川方桝、津村聖山、吉田吉甫、正岡元翼らの儒学者が参画したとあります。
 頼杏坪とは、頼山陽などで有名になった、竹原出身の頼三兄弟の一人で、いずれも浅野藩のお抱え学者となります。頼杏坪は、三次の代官にもなり、学問と実践との両立を図った儒学者でもあります。
 現在の広島県の通史は、『芸藩通志』を根拠にして記載してある部分が多く、私たちが広島県の近世の歴史を読み解くとき、この歴史書がある意味でベースになっていると思われます。


 石田氏の推測によれば、陶晴賢の墓のすげ替え事件は以下のような顛末であったろうと推測されています。
『芸藩通志』を編纂していた担当者たちが、洞雲寺に来て調査してみると、あれだけ有名な陶晴賢の墓がない、または特定できない状態にあった。
 しかし、洞雲寺で陶晴賢の首実検を行い、塚を立てたことの史実はあるわけです。これは、当時の桜尾城主であった桂元澄の六男元盛が1622年に著した覚書、即ち、桂岌円覚書やこれをベースにして書かれた、毛利輝元の右筆小田木工丞が1624年に著した覚書、即ち、老翁物語にかかれていることが元になっています。
 史実はあるのに、陶の墓がないのは、おかしい。寺にも陶の墓と伝承されているものが記載されていない。そこで、担当者たちがとった行動は、それらしき立派な墓を陶晴賢の墓と指定したのではないかという推測です。
 つまり、ここがポイントですが、人間、特に知識人に時々仄聞されることですか、自分の理屈というか先入観というのがあって、眼前の事実がその理屈に合わなければ、事実を無視して理屈に合わせてしまう、といういたって人間的な現象が起きたということだと思います。
 そのとき以来、洞雲寺には、1625年以前には、寺の覚書に記載されていた厳島神社職で桜尾城主であった厳島下野守教親墓がなくなったことから、現在の陶晴賢の墓と指定されている塔は、自ずと誰のものか、推測されるようなことを行間に示唆されていますが、私も石田氏の推測はかなり信憑性のある、合理的な推測だと思います。
 担当者たちにとっては、『芸藩通志』に陶晴賢の墓なし、という事実も記載できる可能性はあったのに、それを採用しなかったのには、上記の落とし穴にはまった可能性、または当時確証を持つに至るほどの資料を持っていたかの二つだろうと思います。


 厳島合戦が行われたのが、1555年です。その記録が書かれたのが、伝聞の形で1622年です。もうすでにこの段階で70年近くもの時が経過しています。
 そして、広島藩の編纂担当者たちが洞雲寺にやってきて、陶晴賢の墓を調査したときには、厳島合戦が終わった後、はるか265年後のことです。果たして誰が墓石に何も記載されていない供養塔を、陶の墓だと決定できるほどの確証が持てたのでしょうか。
 しかし、ひとたび『芸藩通志』という藩公認の歴史書に記載されたからには、陶晴賢の墓がないなどということは、許されなくなったとも石田氏は指摘されています。陶晴賢の首塚、供養塔、墓は、1825年以降は、立派な墓として私たちを迎えてくれることになったというわけです。
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