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第28回  縄文人は定住生活をしていた



 2002年3月24日の朝日新聞インターネット版に、『最古級の定住集落跡出土』という見出しで、国内最古級の定住跡と見られる縄文遺跡が見つかったと報じられています。場所は、静岡県芝川町で、窪A遺跡と呼んでいます。
 時代は、縄文草創期と区分されている今から約1万1000年ほどの前の時代のものらしいということです。
 遺跡は、6件の住居跡が確認され、遺跡からは、木の実や動物の肉をすりつぶす時に使ったと思われる石皿や磨(すり)石(いし)が多数出ていることから、これらの道具は、移動するには重すぎ、ある期間まとまった定住生活をしていたと推測されているようです。
 私の知る限り、国内最古のある程度の規模のある縄文時代の定住遺跡は、鹿児島県国分市にある『上野原遺跡』でした。
 この遺跡の時代は、今から約6500年くらい前のものとされていますから、今回の静岡県の窪A遺跡は、これよりはるか5000年も古い縄文定住遺跡だということになります。
 私たちは、学校の歴史では、縄文時代は定住せず採集生活をしていて、弥生時代になって稲作が始まり、定住生活と村や国が起こってきたと教えられていましたが、最近の考古学の発見は、これまでの私たちの常識を根底からひっくり返しているようです。
 稲作文化も弥生時代に始まったのではなく、とうに縄文時代からも小規模ですが、稲作をやっていたというのが最近の常識になっています。ただ、稲作という不安定な経済行為よりは、海や川、山の幸を利用していた方が、よっぽど豊かで安定した生活を維持できたたから、稲作はそれほど重要視されなかったと私は見ています。稲作というのは、非常に不安定な経済行為なのです。
 また、村や政治的集落の発生などについても、高知県土佐市の居徳(いとく)遺跡群の中から、矢で射られたり金属の刃物で切られたりした痕跡のある人骨が見つかったというニュースが今月報告されましたが、これなども縄文時代には、すでに戦争や戦などが行われていた証拠として注目されています。
 縄文時代には、和やかで、平和な暮らしがあったと、私たちは勝手にイメージしていますが、そもそも人間の誕生したときから、戦や争いごとは絶え間なくあったと考える方が自然ではないでしょうか。
 これは、猿の社会を見れば、容易に推測できます。人間は、猿からもっと進化した分だけ、本能制御が欠落してしまっているわけですから、同種族の殺し合いを絶対的に回避できるほど、安定した本能制御はない動物なのです。
 狼は、首を差し出し、服従の姿勢を示した同種には、どんなに攻撃的な状態であっても、噛み付けないという動物学者の報告を読んでみても、人間という動物の特殊性が浮き彫りにされるわけです。
 縄文人だから、争いはしなかった、というのでは、縄文人は人間ではなかったようなことになるではありませんか。
 縄文人は、猿や狼ではありません。人間ですから、争いもすれば、より安定した生活を営んでいきたいと欲求したのも自然なことです。
 


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