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第35回  豊臣秀吉は農民の子ではない!!

  豊臣秀吉は大河ドラマで何回も放映されるほどに、日本人受けする武将ですが、彼については昔から農民か、それに近い足軽の出身のものが関白にまで上り詰めた、ひたすら知恵によって立身出世を果たすという日本人好みの典型的なストーリー性がまつわり付いてきました。
 私は 秀吉が尾張の農民出身で、若いときは各地を放浪して苦労して出世していくストーリーを長く疑問に思ってきました。
 彼が天下を取っていく段取りで、一番不思議に思っていることは、情報力とその機動力の迅速さです。
 猪俣の一夜城築城に始まり、金ヶ崎の退却戦、中国の大返し、賤ヶ岳の戦いの大垣返しなど秀吉が天下を取っていくための前哨戦すべてに、彼の常識離れした機動力があります。秀吉の軍はどうしてこのような常識離れした機動力を発揮できたのか、疑問です。
 彼が農民の子とすれば、農民とどうしても接点をもたない点が多々あること、秀吉と黄金伝説など、しかし秀吉が山の民系統の人間であれば、彼にまつわる様々な点が氷解してくるという点です。

 まず彼の義理の父であると言われる《竹阿弥》。これは名前からして、能の大成者である世阿弥、観阿弥を想起させます。そのような何らかの芸能民、非農民を想定させる人間がどうして農業を営む母親と結ばれるのでしょうか。生産に余裕のない家であれば家政にプラスにならない人間を抱え込む余裕などあつたとはとても思えません。ところで、世阿弥、観阿弥は自分のことを秦氏と称していて、芸能民であることを示しています。彼らのルーツが楠正成につながり、楠正成が山の民につながります。また黒須紀一郎氏の《鉢屋秀吉》でも全国を流浪する律令制に従わない人々の中で、《阿弥》を名乗ることなど、令外の民と《阿弥》との繋がりは述べられていますが、その通りだと思います。
 律令制のもとで、稲作を国家運営の基本とする思想があって、日本人は稲作民であると考えがちですが、これは網野善彦氏などの研究成果によってわかるように、いい加減な捕らえ方であることはわかってきました。古代、中世を通じて、日本には律令制に捕捉されないで生きていた人々が多くいたこと、百姓イコール農民ではないことなどもわかってきました。秀吉の時代、周囲にはまたまだ古代の名残を引きずっていた人々が多くいたこと、秀吉自身がそういう令外の民の流れであったのだろうと思います。昭和の戦後にもまだ、地方の田舎には、明治時代に禁止された修験道、山伏、托鉢の雰囲気は社会の中に残滓として残っていたほど、日本社会の深層には律令制度―国家体制の中に捕捉されないで生きている人々がいたのです。  次に彼と《サル》とのつながりです。秀吉といえば、信長から《猿》と呼ばれていたようなイメージが付きまとっていますが、それは秀吉は猿とつながっていると世間が感じていた証拠であります。豊臣秀吉と猿は切っても切れない縁といえます。それでは《猿》とは何を暗示しているのでしょうか。もひとつ、秀吉の姉である《朝日姫》のこと。なぜ朝日というのか長らく疑問でした。

 真弓常忠氏は《古代の鉄と神々》の中で、猿とは《日吉神社》の使いと考えられていて、それは日吉神社の日祭祭祀の際に猿女の巫女が必要であったからであると述べられています。猿が日祭祭祀に結びつくのは、猿の習性からくるものであり、夜明け前に欣喜雀躍する性質があり、その性質が朝日を迎える祭祀に結びついていると説明されています。そして猿女の巫女の祭祀はもともとは、海人族が古代、鉄を求める際に行った祭祀であることも説明しています。         
 このように考えると、秀吉と《日吉丸》と《猿》そして姉の《朝日》とのキーワードがすべて見事に結びついてきます。秀吉のバックグラウンドが、鉄や鉱物資源を追い求めた人々の流れであったのではないかと推測できます。
 彼の父方のルーツは、因幡から丹後の山師ではないかと言う説もあります。鉄を製鉄するために大量の木炭が必要です。中国地方山間部には、製鉄に必要な木炭を生産するための膨大な山林を所有する一族がいたようです。これは今の県境を越えて、山林を所有しているわけで、現在の鳥取県から兵庫県、さらには京都の丹波丹後地方にまで広がっているわけです。秀吉は鳥取攻め、播磨の上月城攻めなど主に中国の毛利氏攻略に動いていますが、これなど彼のバックグラウンドとそのネットワークを考えると、この地方こそ彼の得意とする地域ではなかったかと推測できるわけです。彼の動きを支えてくれた人々がこの地方にいた、事情に明るかったと思えるのです。

中国地方の攻略こそ、彼の出世街道になるわけです。一番自分が得意であるフィールドで勝負を賭けていたと考えていいのではないでしょうか。 次に彼の軍の機動力についての疑問点。

 彼の軍の機動力については金ヶ崎の退却戦、中国の大返し、賤ヶ岳の戦いの大垣返しなどで遺憾なく発揮されますが、当時の他の武将ですら予期していないほどの機動力を発揮できた本当の理由は何でしょうか。
 通過点各所に拠点を置いていた、大盤振る舞いをして士気を高めた、など言われていますが、とにかくルートに精通している必要はあります。山間部に関する地形の詳細については、山師の得意とするところです。古来日本には、国家によって開発整備されてきた平地の道があるとすれば、山を暮らしとする人々の間には、山から山へとつながる広域的な《山の道》があるとされてきました。義経をあれほど厳しい厳戒態勢の中を見事平泉に落としたのも、そういう《山の道》であると考えられてきました。修験者の間では獣道みたいなルートをあたかも飛ぶような速さで歩くことが出来るそうです。これは私自身実感できます。私も山道を小さいときから歩いているので、平地と変わらない速さで歩くことが出来るからです。修行すればもっと速く歩くことは出来そうです。現在昔から残されていた《山の道》も誰もその在り処を知らされず、時代と共に消えているはずです。

 例の墨俣城の一夜城については、数日のうちに砦を完成させるには。それなりの技術陣、資材が必要です。農民の倅と、その人脈では不可能と考えます。蜂須賀子六が援助したと言うならば、彼もまた山の民系統の人間で、その人脈で秀吉を生涯支え続けたと考えるほうが自然です。橋の上でたまたま出会ったなどというのはもったいぶった作り話です。秀吉の出世した後から作り出された話に過ぎません。橋の上での出会いというストーリーは、義経と弁慶をモデルとしているような気がします。  
 
 最後の疑問点、これはまだ自分でも確信がないのですが、秀吉の出生地が尾張であること。これについては、尾張とは、古代より海人族がいたところで、それが現在愛知県の海部郡という地名にも残されています。海人族と製鉄がどうして結びつくのか疑問に思う方も多いと思いますが、古代においては、鉱物資源の知識を最初にもたらしてきた人々は、海洋系民族と考えられています。そのあと大陸系の人々による高度な製鉄技術がもたらされますが、鉱物資源の知識は最初海人族がもたらします。海人族は漁業を生業とするというイメージは、現代からみた錯覚です。
 海人族と製鉄との関係、山師との関連性などについては、別の機会に譲りたいと思います。ただここでは、愛知県海部郡近くには、岐阜県関市など鍛冶と関係ある地域が多々あることを付加しておきたいと思います。


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