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第42回  なぜ幕府は長州に敗れたのか


長州藩が幕府によって征伐される羽目に至る原因は、1864年8月のいわゆる《禁門の変》によって、朝廷に対して弓を引いたからです。それではなぜ長州藩が朝廷に対して弓を引くような行動に出たかと申しますと、これは1863年8月18日の《八・一八政変》というグーデータで長州藩が京都から追放されたからです。この《八・一八政変》とは、それまで攘夷派の先鋒として京都の政治中枢に食い入っていた長州の過激攘夷派の動きに対して、攘夷を唱えていた孝明天皇自身嫌気がさし、長州過激攘夷派とそれにバックアップされ朝廷を牛耳っていた三条実美ら長州派公家の追い落としを図ったグーデータです。この事件によって三条実美ら長州派公家は長州へ下野していきます。これがいわゆる《七卿落ち》という事件です。

 この事件以降、長州藩の最大の課題は、京都政界から追放された汚名の挽回、勢力回復に尽きます。長州藩としては、攘夷を推進している孝明天皇の御心に沿った行動をしているという自負がありました。朝廷のために尽くしていたのに、なぜ京から追い出されなければならないのか、これが長州過激派たちの思いだったわけです。そしてその雪辱を果たすため再度京都への上洛を試みますが、これを迎え撃つ徳川慶喜、会津藩、桑名藩の松平容保兄弟らの《一会桑》勢力と京都に勢力を築こうとしていた薩摩藩との合同勢力に跳ね返されます。この事件が《禁門の変》です。

 長州藩は《禁門の変》によって、完全に朝敵に貶められてしまいます。1864年7月24日長州討伐の勅命が下ります。長州藩主父子の官位は剥奪され、公武合体勢力側に立っていた《一会桑》勢力と幕閣たちは幕府権力の挽回を図るいいチャンスとばかり、長州征伐に取り掛かります。これを第一次長州征伐といいます。このときは、征長軍総督の徳川慶勝の参謀となっていた西郷隆盛の勧めで(実はこの西郷隆盛の戦術は数ヶ月前の勝海舟との会談によって、内戦している場合ではない状況であることを悟ったからと言われています)、長州藩内部の勢力争い利用した《長人による長州始末》が行われ、責任者の国司、益田、福原の三家老の切腹によって恭順の意を示すことで事態は収拾されました。このようなソフトな決着が可能だったのは、いずれの藩も台所事情が苦しく長期的な軍の展開は本音でないこと、急展開する時代状況を考えれば、公権力による長州いじめとしか見えないような始末に対する後ろめたい心情的な時代雰囲気があったからです。

 しかし当時の幕閣や徳川慶喜たちにはこの時代に充満しつつあった雰囲気が読めなかったようです。そうです、彼らは《K・Y》だったわけです。三家老を切腹させ、恭順の意を示したのにも関わらず彼らは、追い討ちをかけるかのように長州藩主父子の江戸への引渡し、引き続き長州藩監視を行えなど強硬な要求を突きつけます。長州藩が恭順の意を示したのは、幕府の権威が通じたのだと相変わらずK・Yなのです。征長軍総督で徳川家筆頭格親戚筋である徳川慶勝ですら、幕府に愛想尽かしている状況の中で、時の幕府閣僚たち(老中、大目付け、勘定奉行、外国奉行クラスの連中)、徳川慶喜らは、幕府の権力維持のことしか眼中になく、長州を潰した後は薩摩も潰してしまえと当時の勘定奉行小栗忠順などはいきまいていたようです。

 このような状況の中1865年5月16日将軍家茂が江戸を大阪城へ進発し、第二次長州征伐―最近では長州戦争と言います―が始まります。しかしいざ上京してみれば、長州征伐の勅許は降りず暫く待てとの命が朝廷から下る始末。さらに1865年9月には英仏蘭の艦隊が兵庫沖に現れ、兵庫港開港を求める始末。その騒ぎで長州征伐どころではなくなります。やっと長州征伐の勅許を貰うのが1866年1月22日。しかしその前日21日には密かに薩長同盟が成立していたのです。このような悠長な時間の経過の中で、実際に長州と幕府軍の開戦が始まったのが1866年の6月5日。将軍家茂が上洛してから、すでに一年以上が経過していました。その時すでに大阪城に一年以上も滞留されていた幕府軍には厭戦気分が蔓延していました。


 一方長州の事情はどうだったのでしょうか。
第一次長州征伐の後始末がついた1864年11月から年末にかけて、長州藩では高杉晋作によるクーデタが行われ保守派を一掃し、対幕府勢力が主勢を占めるに至っていました。ここに長州藩は高杉晋作の奇兵隊をはじめ各種の義勇軍を組織し、農民、町民からサムライに至るまで全藩民挙げての反幕府抵抗に備える体制を整えようとしていたのです。その体制の要は、兵力の増強だけでなく、それを近代化することにありました。数だけなら幕府軍に適うわけがありません。その長州には下関が四国連合艦によって攻撃されて以来、軍の近代化を急ピッチで進めて行きます。薩摩と同様異国と実戦を交えたという貴重な体験が、この二つの雄藩の空気を変えたのです。大村益次郎を起用し兵制の改革を行う一方では、井上聞多(後の井上馨)と伊藤俊輔(後の伊藤博文)を長崎に派遣しグラバーから大量を武器と軍艦を購入させます。この際、この仲介を行ったのが、坂本竜馬と小松帯刀であることは、《篤姫》のドラマの中のワンシーンでご存知の通りです。

 この時グラバー経由で購入した銃は、七千三百挺のうち、内訳はミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺。このミニエー銃とは後ろから装てんし、弾丸にらせん状溝が刻まれ、発射されると弾丸が回転するので命中率、飛距離が格段に性能アップしたものです。射程距離は約300メートル。それに対してゲベール銃は前装填方式の銃で射程距離約200メートル。長州藩がこのミニエー銃を末端の各部隊に浸透させたのはその後の戦局を大きく左右することになります。


長州藩は、幕府からの再々の藩主の広島への出頭要求をのらりくらりと引き伸ばしながら、一方では急ピッチで富国強兵策を急いでいました。幕府側は、まだ長州は幕府の言うことを聞くだろうぐらいの認識しかもたず、藩主父子が病気であれば代理人でもかまわないから出頭せよと最大限の譲歩までします。しかしいつまでも要求を無視し続ける長州に対して幕府はもう後には引けず最後通告を1866年の6月5日と告示します。 

はじめから幕府と戦うことを決めていた長州は、部隊を配置し、いま遅しと幕府軍を待ち構えていました。戦いは @芸州口(広島県) A石州口(島根県) B周防大島口(山口県大島) C小倉口(北九州)  D萩口の五方面から長州へ攻め込む予定でした。しかし萩口を担当していた薩摩藩が応じず、芸州口一番手の広島藩(浅野藩)が傍観、 小倉口の二番手を担当していた佐賀藩も傍観で参加せず、作戦は大幅に狂って長州戦争に突入します。長州戦争の端緒を開いた周防大島口では、高杉晋作が幕府の軍艦を奇襲攻撃、小倉口に回していた奇兵隊の一部を投入し、大島の農民まで一斉に加勢し、幕府軍は敗退する始末。小倉口を死守すべきはずの幕府軍は、小笠原小倉藩、立花柳川藩、細川肥後藩、有馬久留米藩、鍋島佐賀藩。しかし最前線に立たされている小倉藩を除けばいずれの藩も傍観して動かず。挙句の果てには長州の総攻撃の前に戦線を離脱。小倉藩は孤立無援の状態に。石州口では浜田城の藩主が船で親戚の松江城に逃亡する始末。このように幕府軍にはまるっきり戦う意思が欠けていたのです。


軍備の点でもその違いは明らかでした。農民からサムライまで志願兵からなる長州軍に対して、幕府軍は寄せ集めの軍団。しかも関が原の戦いでは武勇で名を馳せた井伊の「赤備え」などの軍装で出陣している始末。旧態依然たる軍備で出陣してきた幕府軍は義勇軍が放つミニエー銃によって各所で粉砕されます。長州藩は300メートル先のコインを射抜くことができるスナイパー部隊まで養成していたのです。小高い山から神出鬼没で陣地めがけて射撃されるのですから、たまったものではありません。

 この戦いに参加したのは武士たちだけではありませんでした。高杉晋作の奇兵隊創設の理念は、広く民間から義勇軍を募ることでした。士気の高いボランティア部隊の創設です。これによって長州を死守する。だからといって幕府の前に対峙しているすべての長州部隊の思いが一致しているわけでもなかったのです。部隊の中での様々な内ゲバも見受けられます。参加した人々のそれぞれの思惑があつたのです。農民の部隊、山伏たちの部隊、被差別部落の人々からなる部隊と、それぞれの思惑を秘めながら、アンシャン・レジームに立ち向かっていたわけです。江戸270年の間に成熟し充満していた民衆のエネルギーがこのときばかりと、一気に爆発したと言っていいと思います。これがこの長州戦争の本質と見なければなりません。長州はこの成熟しきっていた民衆エネルギーを挙国一致部隊として巧みに利用したまでです。幕府はそれに敗れたということです。そして時代は明治へと動いていきます。

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