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第47回 寺はエリート教育機関だった


 
 戦国時代、武士たちは合戦に明け暮れ、戦うことしか念頭になかったと、そういうようにもっぱら現代の私たちは思いこんでいますが、それは大きな間違いのようです。
 戦国の世に必要なことは、歌も連歌も能も必要ではなく、ただただ武略、計略のみであるというようなことを、嫡男の隆元に書き送っている毛利元就ですが、そんな元就自身もかなりの歌、連歌や能などを楽しんでいたようです。

  元就はみずから『続古今和歌集』を自分で書写したり、多くの和歌や連歌の句を書き残しています。また『源氏物語』を書写させて、『源氏物語』も読んでいたようです。
  その他吉田郡山城山麓にあった興禅寺では京の公家などともに能や蹴鞠なども楽しんだようです。
  元就の嫡男隆元は、少年時代に当時の日本で最も栄えていたと言われる山口で、大内氏のもとで人質時代を過ごしていることから学問や芸能などに関心が深かったようです。現在残されている『枇杷に鷹図』を見れば、とても一介の武将が描いたものとは信じられないくらい見事な絵を描いています。

元就の次男で吉川家を継いだ吉川元春が、尼子氏攻略のための出雲の陣中で約2年近くの歳月をかけて、『太平記』四〇巻をみずから書写したことはあまりにも有名な話です。
 また吉川元春の嫡男元長が、父親に負けず学問や知識に造詣が深かったことも知られており、出陣を前日に控えた状況の中でも、書写について指示したり、陣中に持っていく書物などの選別に余念がないことが伝わっています。現在広島県千代田町にその遺構が残されている『万徳院』跡は、そういう戦国武将吉川元長の教養のひとつの結実と言えます。

  こういう学問や知識に対する貪欲な好奇心や教養は、何も毛利家に限ったことではなく、他の武将たちも同様だったようです。上は大名クラスから下は土豪クラスの武将たちまで、ほぼ同じような教養を持ち合わせていたようです。全部が全部とは限りません。いつの時代でも例外はあります。文が書けない武将もいたようですが、それは出自とか自身の性格など例外的な環境がありますが、そういう例外を除けば当時の武将クラスはお互いに共有できる教養というものを備えていたわけです。

それでは、こういう武将たちの教養の基礎は、どのようにして身に付けていったのかと言いますと、寺です。武将たちの子息は寺に入れられます。寺に入る時期は一定してはいないようです。現在で言う、小学生から中学生にかけての時期に寺に入り、僧侶から読み書きの手ほどきから、古典の精読、和歌や連歌の手ほどき、果ては料理から医学まで習うものまでいたようです。
  例としては、『庭訓往来』、『貞永式目』、『論語』、『四書五経』、『六韜三略』、『古今集』、『万葉集』、『伊勢物語』、『源氏物語』などの多様な古典を精読したようです。
  こういう古典が武将たちの教養の基礎となり、その後実践としての武芸の修行と並行しながらも、教養への関心は衰えることなく、易学や茶道、能楽や医学にまで関心を広げていく武将たちも少なからずいたわけです。   例えば、岩国吉川藩の家老となった香川家は、もともとは安芸の八木荘(広島市安佐南区八木)の地頭の家柄で、武田氏から離れ毛利氏に与力し、その後吉川家の家老となった家系です。その香川家は、歌人を輩出したり、『陰徳太平記』などを著しています。

また同じく岩国吉川家の初代当主になった吉川広家は、豊臣秀吉との縁で茶道を学んでいます。現在、岩国城山麓の吉川広家墓所には、同じく秀吉の家臣で後の浅野藩家老にして高名な茶人でもあった上田宗箇から広家に送られたミミズクを彫刻した手水鉢が残っています。これなど藩という世界を越えてお互いに教養人としての世界を共有していたことを物語っています。
  このように、日本の中世を通じて、寺の果たした役割の中でも、教育機関としての役割は大きく、この歴史的伝統が明治維新のときの日本人の識字率の高さが、世界の中でもずば抜けていたことを示すことになるわけです。中世までの武将クラスのための教育機関としての寺が、江戸時代に入ると、庶民の教育機関としての役割も担うようになり、江戸期の文化を産み出す背景でもあったわけです。  このように寺は当時の最高の教育機関であり、僧侶は、当時の最高のインテリゲンチアであったわけです。このあたりの事情は西洋における修道院の果たした役割と事情はおなじだったわけです。

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