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第7回  合戦はビジネスだった その2


第二回目の今回も、『陰徳太平記』から紹介することとしましょう。
合戦の場面は、現在の島根県太田市にあった石見銀山を巡る毛利氏と尼子氏との争奪戦です。時は、1558年。

 毛利元就の次男吉川元春は、石見銀山を獲得するために、石見攻略に着手します。これは、当時の銀山が戦費を維持するためのドル箱だからです。厳島合戦で陶氏を破り、周防長門両国へと戦線が拡大するにつれ、戦費が跳ね上がるわけです。元就は、早速吉川元春を石見攻略に向かわせます。
石見銀山は当時尼子氏の支配下にあり、小笠原氏は、その石見銀山を領有していた領主です。現在の島根県川本町に本拠温湯城はありました。
場面は、その小笠原氏を攻略する前哨戦の場面であると思われます。
早速当時のサムライたちに登場してもらいましょう。
小笠原長雄の家来に寺本伊賀守とその息子玄蕃充というなかなかの武士がいて、元春配下の大将杉原播磨守重盛の家臣たちと戦ったようです。

ところがその戦いのあった晩、杉原の陣ではひと騒ぎ持ちあがったようです。
杉原重盛の家臣で、福田右近と、壇上監物というサムライが、口論し始めます。
『玄蕃への一番槍は私であった』と、福田右近が言うと、
『いやいや、自分こそ一番槍だった』と、壇上も負けず言い張る。
だんだん口論は激しくなり、果ては刃傷沙汰に及ぶほどになつたので、大将の杉原重盛が、『まあ待て待て。 味方に証人は一人もいないのだ、明日になったら当の玄蕃充に聞いてみたらよかろう』と言ったので、二人も納得して夜が明けるのを待った。<br>
夜が明けると、当の寺本玄蕃充がまたまた一番に城から打って出たので、杉原重盛の家臣が、『寺本殿にお尋ねしたい。昨日の合戦で福田、壇上と名乗り、貴殿と槍を合わせたもののうち一番槍はどちらでござったか』と聞くと、寺本はにっこり笑って、
『何しろ乱軍のこととてはっきり見分けがつきませんでした。さては臆したと笑われましょうが、まことにお恥ずかしい次第です』と言って多くを語らない。




 これを聞いた大将の重盛は、
『あれほどの武士がどうしてみわけがつかないことがあろう。惜しい武士を第二に落とすことを気の毒に思い、そのようにいって花を持たせたのであろう』と言って、深く感心した。<br>
 重盛は、元春に進言し、『寺本父子は敵ながら立派な武士です。何とかして味方に引き入れるようにいたしましょう』と、お願いして、味方につけたそうです。<br>
 これが物語の一部始終です。<br>

 皆さん、もうお気づきでしょう。これでは合戦での今まで私たちが抱いてきたイメージとギャップがどこかあります。
 首をとるかとられるかというような一世一代の場面で、敵に、昨日の経過報告を訪ねているわけです。しかもそれに対して、敵もにっこり笑って気遣いを見せながら、回答しています。一体全体どうなっているのでしょうか。これから首を取ろうという敵同士の会話なのです。

しかも証人がいないから、敵方の当の寺本玄蕃充に聞いて来いという、大将の感覚も、どこか現代の私たちのイメージとはズレガあります。
 昨日の合戦の経過報告を敵方に尋ねたのは、それが非常に重要な情報だったからです。つまり、一番槍の功績が誰に帰するかという情報です。現在のサラリーマンのボーナスどころではなかったのでしょう。一番槍の功績を得るために、命をかける。しかも命をかけるということに、現代の私たちが抱く暗くネガティブなイメージがどことなく薄いのです。
これは、なにやら現代の私たちの死生観と当時の武将たちの持っていた死生観の間にかなりギャップがあるのではないかと推測するのです。この当時の人々が普段持っていた世界観、人生観というのが背景にあって、そういう背景をもっとイメージできなくては、なかなか核心、真実の姿というものが見えてこないような気がしています。

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