Samurai World>歴史再発見




第8回  毛利元就から学ぶこと




 
  毛利元就の取材を通じて考えさせられることは、なぜ彼は地方の小領主の次男坊から、中国地方を代表する戦国大名にまで登りつめることができたか、ということです。当時、毛利元就と比較してみても、周辺には互角またはそれ以上に経済的、軍事的に優れていた封建領主たちは数多くいたわけです。その中で、なぜ彼だけが、他の領主たちを圧倒していくことができたのでしょうか。

 毛利元就は、全国的なレベルで見れば、中国地方を代表する戦国武将として取り上げられることが多いのですが、私は毛利元就という人間は、単なる一地方の武将として片付けられるほど、器の小さい人間ではなかったと思っています。 豊臣秀吉や徳川家康も少なからず、先輩として毛利元就を意識していたのではないかと思います。特に、徳川家康は天下の取り方が毛利元就にかなり似ています。決して急がない。用意周到に駒を進める。

 歴史にifはありえませんが、もし彼が、あと30年ほど遅れて生まれていたら、関ケ原の戦いは無かったかも知れません。人間の器として、徳川家康と互角に戦えたのは、毛利元就しかいなかったと思います。
 結局、毛利元就が団子状態の戦国競争を勝ち続けていった真の理由と言うのは、どこにあるかといいますと、一言で言えば、『常識』に囚われないという柔軟な精神性にあったのではないか思います。

 それまでの常識、因習、経験に縛られることが無い柔軟な精神性、状況を的確に分析しうる合理性、明確なビジョンを持ちうる豊かな想像力、そしてそれを冷徹に実行していく実行力、これらの能力がけた違いに他の武将たちと比較して優れていたということだろうと思います。 

 戦国時代を勝ちつづけた武将たちには、共通して柔軟な発想、考え方ができるという特徴があります。北条早雲、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉など代表と言えます。それとは逆に常識的に見れば、勝てると見られていた武将たちがあっけなく敗れる。今川義元などはその代表選手だろうと思います。朝倉義景とか何もしないうちに敗れていきます。

 このようになぜ敗れるはずの無い武将が敗れるのかと言いますと、常識というものに囚われすぎて油断がある。新しい状況に迅速に適応できない。

 人間に限らず、すべての動物と言うのは、生命を維持するために、本来保守的であるように設計されていますから、意識し、努力しなければ、保守的な生活習慣、意識に慣れ親しんでいきます。勝ち続けていくと、勝つパターンという因習に慣れてしまいます。ですから、この次も同じ手法でやっていけると思い込んでしまうものです。新しい手法を採用しようとはなかなかしなくなる。意識のルーティン化が行われていくわけです。

 ところが、私たちの身の回りの状況、時代は刻々と変化していきます。これは時空間の中に存在している私たちが避けて通れない問題です。ですから、歴史は変化せざるを得ない。これは真実です。しかし、意識のルーティン化がいったん行われてしまうと、状況(環境)の変化に対応できない。状況を読めない、的確に分析できない。

 いままでの手法でやっていけるものと、頭から思い込んでしまうか、または思い込まないとやっていけないわけですから、変化していく状況(環境)を直視しなくなります。時代の変化が見えなくなります。人間の意識は、頑固なもので、自分の方の意識、考え方を変えなければいけない場合、毛利元就のような柔軟な精神性を持っている人間は、意識の方が柔軟に変わりますが、そうでない人間は、意識を変えるのではなく、現実を直視しないことによって、自分の意識の正当性を保守する態度を取ります。心理学的なトリックが行われるわけです。
 ここに柔軟な精神性と合理性という問題が、実はコインの表裏関係のように一体であることがわかります。

 毛利元就や徳川家康、織田信長という武将たちは、この才能が秀でていたと思われます。豊臣秀吉も壮年期までは天才的な才能を持っていたのかも知れませんが、老齢期に入り、生まれ育った境遇からくる劣等意識と、少ない身内しかいなかったせいか、曇りが出てきたと言えます。

 毛利元就という人間は、一見頑固そうに思えますが、それは彼の哲学、考えというものがはっきりしているからです。それは、三番目の豊かな想像力に基づく明確なビジョンに裏付けられているからだと思います。

 彼には、将来への明確なビジョン、歴史性というものがはっきりあります。それが三本の矢の教訓へと結実していると言えます。綿密な状況分析の上に、歴史的な未来を考えて、初めてああいう教訓は生まれるものです。自分の息子たちの才能まで冷徹に見抜く合理性があります。また敵を倒すのに、決して急がない。着実にターゲットを落としていく。これも長期的な計画性があるからです。明確なビジョンを達成して行くためには、何年、何十年でもかける。恐ろしいほどの執念と言いますか、計画性があります。

  そしていざ、計画の実現を成就しなければならないときには、冷血漢と言われるほどの処置を下します。迷いがありません。温厚な人柄の裏で、彼の手によって消されていった武将たちは数え切れないほどいます。しかもそれが徹底しているために、禍根を残さない。やられた方も、毛利元就についていく。

この点は、人間の扱いが、徳川家康と同じくらい巧みだったと思えます。心理学的な才能があったのだろうと思います。織田信長にはこの点が欠落しています。人の心の機微を感じることができない、見抜けない。冷血漢と言われうるほど徹底した人生哲学を持ちながらも、一方では、人の心の機微を感じていくほどの豊かな想像力と感受性をも持ち合わせていた武将、それが毛利元就という人間です。

 彼は新しい時代を築いた武将ではありませんが、それは彼が少しだけ早く生まれすぎたからだと思います。それでも、彼はそれまでの状況を打破しつつ、新しい家中を作り出していきます。いち早く鉄砲を採用したり、新しい攻略法を案出したり、海賊たちと積極的に交わりながら、海(外の世界)への関心を深めていきます。
 山間部の郡山城という閉鎖的な空間の中に安住することなく、太田川河口に進出し、積極的に直属水軍を養成したりします。彼の視線は、明らかに外に広がりを持っています。

 山陰の尼子氏を攻略した後、毛利元就は、次に何をしたかったのでしょうか。豊後の大友氏や備中の宇喜多氏などに悩まされながらも、彼には何か心するものがあったように思います。私は、毛利元就はあのまま長生きしたとしても、決して京都へ東上する考えはなかったと思います。頑固そうに見えて、もっと自由で進歩的な人間であったように思えます。
inserted by FC2 system