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第9回  源平合戦 壇ノ浦勝敗の最大の要因



 壇ノ浦は、九州と本州とを隔てる海峡です。潮流が早く、小舟で航行するにはそれなりの技術が要されたことは推測できます。現在は写真に見られるように、関門海峡の足下を昔ながらの潮が何事も無かったように流れています。
 今から約千年の昔、ここで一大歴史イベントが行われたことは知られています。世に言う壇ノ浦の合戦です。この地で時の天下を牛耳った平家一族が潮が引くような勢いで、この世から姿を消していきます。
 関門海峡の波打つ音が聞こえる赤間神宮には、海の中に消えって言った平家一門ゆかりの墓が残されています。  ところで、なぜ瀬戸内海から北九州の西海に早くから進出し、その地方の海の豪族たちと関係を結んで、海に強いと言われていた平家が、海には縁の少ない関東の地ゆかりの源氏に敗れてしまったのでしょうか。

 いろいろと本を読んでみますと、戦い半分までは平家に有利であったが、後半になると、潮の流れが変わり、平家にとって不利な状況になった云々と説明してあります。本当にそうだったのでしょうか。私には不可解でなりません。
 そもそも平家は、一族の命運をかけて、この地で最後の決戦をしようと源氏を待ち構えているわけです。それなら、当然戦いの場についての情報くらいは把握しているはずです。また壇ノ浦まで追い込まれるまでに、平家は源氏に海の戦いで負けてない、そもそも源氏は海上戦に挑まない。義経の一の谷合戦、屋島合戦といい、背後からの陸戦です。
 ですから、平家は海戦には絶対の自信があったと思います。だから、最後の決戦場を海戦にすべく、ここ壇ノ浦で待ち構えていたと思います。

 そもそも平清盛の祖父にあたる正盛、父忠盛の代から、平家は瀬戸内海、西海の海を荒らし回っていた海賊たちを取り締まるために、この地方には祖父の代から往来しているわけです。
 またその時から、海賊を取り締まりながら、一方では平家の軍門に従属させて、親密な関係をこの地方の海賊たちとは結んでいるわけです。平家の繁栄を支えていたのは、そうした瀬戸内海や西海の海の豪族たちです。
 壇ノ浦の合戦には、平家方に味方していた海の豪族として、今年のNHK大河ドラマで有名になった西海の海賊松浦氏、安芸の沼田氏、厳島神社を支配していた佐伯氏などがいますが、彼らが瀬戸内海の事情に疎いわけがありません。
 彼らに潮の流れが読めないわけがない、これは常識的に考え直してみれば、すぐわかりそうなものです。

 それでは、一体全体、絶対負けるはずの無かった壇ノ浦で、なぜ海の軍団である平家は、陸の軍団の源氏に敗れたのでしょうか。

 多くの本には、平家の敗因として、先に述べた潮の流れが変わったようなことで説明してありますが、その中でもときどき次のような補足的な説明をしている本があります。

 それは、源氏が平家の船の水夫や船頭などを打ちとり、船の自由が利かなくなったというものです。補足的な説明の仕方ですので、なかなか意識に焼きつけられませんが、すばり、これこそが壇ノ浦で絶対に負けるはずがなかった平家が、源氏に敗れた原因だと思います。

 当時の戦いは、現在の大量殺戮的な戦いではなく、しっかりとルールのある、儀式的な戦いなのです。これは武士が歴史に登場してくる初期のころはかなりそのような儀式が戦いの中で繰り広げられていますが、戦国時代になっても、戦いの前に名乗りを上げる、降伏したものは殺さない、一定の領地は保証するなど、一応そういう儀式的なルールの名残は残っているわけです。儀式つまりある種の戦場でのルールがあるわけです。
 これは、ヨーロッパの戦いについても同様で、ナポレオンの頃までが、古典的な戦いの最後と言われています。その次のヨーロッパを巻き込んだ戦いは、第一次世界大戦になり、そこでは大量殺戮としての戦闘に変化します。
 日本の場合、戦いに入る前に、自分がどこどこの某であって、先祖は誰であっていままでにいかなる手柄を立ててきたかを綿々と講釈してから、お互いに挑んでいくわけです。まあ今の時代から見れば、のどかな時代だったんでしょう。
 そんな古典的な戦いの時代の中にあって、戦闘に直接関係のない水夫とか船頭を打ちとるというのは、今で言えば、一般市民を殺戮するようなものです。そんなひどいことを源氏がしたわけです。これはルール違反です。それを源氏がやった。常識人の平家の人々はまさかそんなことをするとは思わなかっただろうと思います。

 平家というのは、一応武士団ですが、所詮京都の公達の性格から抜け出ていないわけです。公家社会に入り込んだ彼らは、京都の公家社会の伝統としての儀式やルールは大切に尊守します、いや正確に言えば、京都の常識に縛られるわけです。
 一方、源氏は違います。彼らは根っからの荒くれ徒党団です。それは彼らが関東という京都の文化から遠いところで鍛えられたからです。当時の京都の公達たちは、関東の武士たちがやることが、野蛮そのものでたいへん恐れています。京都の常識が通用しない。
 源頼朝が挙兵する前に、京都に討ち入った木曾の義仲の軍が京都で大変な狼藉をはたらいて、ほとほと手を焼いたことは有名な話です。京都の公達たちにすれば、とんでもない田舎者、野蛮人が京都の街になだれ込んだような印象だったと思います。源氏の軍団も、木曾の義仲の軍団ほどではないにしろ、当時の京都の常識からすれば、似たりよったりのレベルだったと思います。

 その源氏の軍団を率いた人物が、源義経です。彼は、一の谷での奇襲によって平家を敗走させたにもかかわらず、兄頼朝に疎んじられ、その後平家討伐の戦いから外されます。
 しかし義経の居なくなった源氏は、その後まだ平家の勢力が浸透している西瀬戸内海への侵攻が膠着状態になります。この膠着状態を打破するために、頼朝は再び義経を起用します。この間の経緯を想像してみれば、兄頼朝にしてみれば、弟義経は気に入らないが、しかし平家を討伐するには彼の采配を借りるしかない。
 一方義経は、兄頼朝に見放され、嫌われた。そして再び自分を起用してくれた。だから何がなんでも兄頼朝のために手柄を立てないと、今度こそ兄頼朝に見放される。
 義経という人は、とことん兄頼朝に気に入られようとしていたようです。義経にとって見れば、兄に嫌われ、見放されるということは、武士としてやっていけないということを意味したのだろうと思います。それは兄頼朝が当時の関東武士団の統領だからです。今で言えば、サラリーマンとしてやっていけないということでしょうか。その統領、社長に見放されたら、生きていきようがない、そんな思い詰めた心境があったろうと思われます。それは彼の生まれ育った境遇の中に、義経の性格形成の要因があるからです。
 そんな思い詰めた心境で彼義経は、壇ノ浦の戦いに臨んだはずです。彼にとっても壇ノ浦が人生の決戦場だったのです。義経はこの戦いに絶対に勝って、都に帰らなければならない、兄頼朝の元に帰らなければならなかった。それなしには彼の今後の身の振りどころはないどころか、下手をすれば兄頼朝に殺される。
 そうした切羽つまった彼が、ついに実行してしまったのが、先の水夫や船頭の打ちとりだったのではないでしょうか。
 つまりそれまでの戦いのルールを破るということです。戦い前半までの平家方の有利な状況を眺め、このままでは負けてしまう、そう思ったんだと思います。
 しかし義経自らの着想でしたのではなく、多分源氏方に付いていた海の豪族、伊予の河野氏、豊後水道の日振島周囲の海賊たちのアドバイスがあったろうと推測できます。特に伊予の河野氏は平家とは因縁の関係です。河野氏としてもどうしても平家を打ちとりたい。

 海に精通していた彼らのアドバイスで、義経は動いたろうと思います。丘生まれの義経には、船の動きなどに付いての知識はなかったはずです。 義経の八艘飛びが有名ですが、あれは必死で逃げたというのが真相のようです。

 補足的になりますが、結局兄頼朝が、義経を嫌った理由は、こうした義経のルールを守らないというような性格が、嫌だったのではなかろうかと私は推測しています。
 一の谷の奇襲にしても、壇ノ浦の戦いにしても、一応勝ったわけですが、頼朝としては正攻法で勝ちたかったのではないでしょうか。安徳天皇まで道連れにした壇ノ浦の戦いは、頼朝にとっても決して後味の良いものではなかったろうと思います。頼朝は、この戦いに平家方として参加していた安芸の佐伯氏に命じて、海中に沈んでしまった神器を捜索させています。
 そしてこの兄弟の決定的な決裂は、義経が兄頼朝に無断で朝廷から勝手に官位をもらってしまったときです

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