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鹿児島神宮は 八幡神社のルーツだった?

 全国で稲荷神社についで多い神社である《八幡神社》の総本山は、大分県宇佐氏にある《宇佐八幡宮》と言われていますし、私も最近までそのように考えてきました。
しかし《古代日本と海人》(黒住秀雄氏他)によりますと、逆に薩摩の地が宇佐八幡宮のルーツでありそうです。
 鹿児島県霧島市(旧隼人町)に鎮座する鹿児島神宮の由来については、サムライワールドの《桑幡氏の墓》《韓国が見えないのに韓国岳というのはなぜか?》でも取り上げているように、本家宇佐八幡宮に対抗する形で宇佐氏との抗争に敗れた《辛島氏》が大隅の地に《正八幡宮》として建立したものが《鹿児島神宮》であるとするものが、一般的なものです。そのきっかけになる事件が養老4年の《隼人の乱》にあるわけです。隼人族の懐柔策の一環として豊前から多くの秦氏率いる一族を(約五千人ほどと推量されています)現在の霧島市一帯に移住させたものとされ、宇佐八幡宮の分社がこの地に建立されるきっかけになったものと考えてきました。
 しかしこの度《古代日本と海人》を読んでみますと、どうもそうではない。そもそも宇佐の地が、全国の八幡神社の総本山にして、《道鏡事件》に見られるような天皇の即位を判断するに当たっての重要な任務を行いうる神社の地になっているのか、その疑問に答える手立ては、《隼人族》でしかないと、指摘されているわけです。
 隼人族とは、中国江南地域にいた人々で、古代日本に上陸、その上陸の地が薩摩半島になります。海流からして当然のように思えます。隼人族は、その後日本各地に分散していきます。彼らの定住していった場所に付けられた地名の代表が《う》の付く地名で、これは《鵜飼》に関係するものであると推測。鵜飼の伝統こそは中国江南地方からの伝統で、水の中で自由に動くことにあやかり、隼人族にとっては神聖なるシンボルにもなつたと推測。特に豊前と、大隅、近畿地方に類似した地名が多いのは、隼人族がこの地域に特に移住していつたからと推測されます。《宇治》の地名も《鵜飼》に関係するものと推測されるのです。
 薩摩半島から大隅、そして豊前の宇佐、それから近畿へと進出していったと推測されています。かくして豊前の宇佐は、隼人族の移住先で、大隅がそのルーツの地であるというものです。720年の隼人の乱を契機にして、宇佐周辺の住民が大隅に移住させられた理由は、そもそもこの地が彼らの故郷だったからと言うことになるのです。
 これまでは、時の政権によって、強制的に移住させられたという歴史観で、この事件を見ていましたが、どうもその逆ではなかったのかというのが、このたび《古代本と海人》を読んで考えるようになったわけです。
 豊前、豊後の地名と大隅の霧島周辺の地名が類似性が多いことは、サムライワールドでも指摘しておきましたが、《隼人族》を媒介にすると、そもそもこの両地域は同じ集団が移住した地域ですから、地名に類似性が見られるもの当然のことと言えます。
 鹿児島神宮を《正八幡宮》と呼称されていることを知っている地元の人々がどれくらい居るのでしょうか。この呼称は、本家宇佐八幡宮に対する張ったりではなく、正真正銘の《正八幡宮》であることにも頷けるというものです。隼人族が宇佐に定住する前から、何らかの形で、この地に宗教施設みたいなものがあり、その跡地に鹿児島神宮が建立された可能性があります。


正八幡神社を自称してきた鹿児島神宮(Kagoshima Shrine)
辛島氏がこの地に移住して建立したと伝えられる。

祭神は、所謂山幸彦となっています。









武内宿祢を祭ってあります。

こちらは、隼人神社とあるので、多分隼人族を祭ったものと思われます。

宇佐八幡宮に対して、この神社こそが正八幡宮として昔から言い伝えられてきました。




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